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西洋音楽理論の歴史と流派

By 2024.03.29序論

19世紀 : 崩されていく「型」

これは音楽に限らずあらゆるエンターテイメントやアートに言えることですが、「型」が確立された後には必ずそれを崩すのが流行ります。音楽の世界でも、「崩し」のブームがすぐにスタートしました。その先駆けとなったのは、さきほども登場したベートーベンです。

🇩🇪ベートーベン(1770-1827)
えー、みなさん、世界に嵐まきおこしちゃいましょう。

次世代のクリエイターたちは、編成や様式、細かな音使いからちょっとずつ型を切り崩し、文字どおり「型破り」な音楽を探究していきました。

“ワルキューレの騎行” (1856年)
“ツァラトゥストラはこう語った” (1896年)

とにかく表現のクセがすごい。彼らは古典派の型を知っていながらあえてそれを破壊したわけで、まさに「ルールは破るためにある」を体現しています。

後を追う音楽理論

一方で音楽理論界もノンビリしていたわけではなく、この時期は特にドイツの学者さんたちが理論をもっとシステマティックにするために頑張りました。

🇩🇪 ゲオルク・フォーグラー(1749-1814)
和音に番号つけて管理したら楽と思うんだよね
🇩🇪 フーゴー・リーマン(1849-1919)
それよりさァ 和音を3つのグループに分けたらいいと思うんだよね

番号づけやグルーピング。いかにも理論らしいことをドイツの人たちがやってくれました。彼らが作ったシステムの恩恵を、現代の私たちも授かっています。しかし新時代の「型破り」な音楽たちを理論化するのは難しく、この時点ですでに理論と現実とでだいぶ差が開いていました。

音楽心理学の発展

一方それとは別の大きな流れとして、19世紀末ごろから「人間は音楽をどうやって認識するのか?」という心理・認知に関する研究も本格化しはじめます。

🇨🇿 エルンスト・マッハ(1838-1916)
あるメロディをさ、違う楽器・違う高さで弾いても「同じメロディだ」って分かるの、よく考えたら人間の頭すごくない?

「メロディとは何なのか?」は実はすごく奥深い問いです。それで哲学者や心理学者が本格的に音楽理論界へと乗り込んでくることになるのです。20世紀初頭にはドイツを中心に「ゲシュタルト心理学」という学問が発展しましたが、音楽もこれに大きく関与することになります。

20世紀① : 現代音楽の誕生

さてクラシック音楽界では、20世紀に入ると「クセすご」もだんだん限界を迎えてきます。

こちらはストラヴィンスキーという作曲家が1913年にリリースしたバレエ用のトラックですが、まるで映画の緊迫のワンシーンでのBGMのようです。この音楽の初公開時には、あまりの斬新さに現場は大荒れだったといいます。

これだって、「今年の新しい日本茶のCMソングです」って言われたら、そんな風に聴こえてきちゃいます。しかしこれは1903年にドビュッシーという作曲家が、東洋の音楽性を取り入れて作った曲(のオーケストラアレンジ)です。

より複雑なリズムや、民族音楽との融合。楽器こそクラシックですけども、中身を見れば現代のポピュラー音楽となんら変わらないようなチャレンジが、実は20世紀の初めですでにたくさん行われていたのです。

ルールからツールへ

やれそうなことをドンドンやり尽くしていき、やがてアートとしての進化に限界を感じた作曲家たちは、既存の枠組みを完全に捨てて根本から新しいものを作ろうと挑み始めました。いわゆる「現代音楽」の始まりです。

“室内交響曲第1番” (1906年)
“ピソプラクタ” (1955–56年)


とても想像できないような展開の連続。もちろんこれはデタラメに作っているのではなく、ちゃんと前衛音楽用の新しい理論を自分たちで構築して、意図的に既存の音楽から脱却したのです。

「作りたい音楽のために、まずオリジナルの理論を作った」というのが面白いですね。ふと気がつくと、理論はルールじゃなくツールになっていたのです。古典的な曲を作りたければ古典派理論を使うし、斬新な曲を作りたければ新理論を使う。

それはモンスターハントのゲームで敵に合わせて武器を持ち替えるのと同じことで、20世紀の人にとったらそれくらいもう当たり前のことでした。

適材適所

理論の歴史は、創造と破壊の歴史

さて、理論を誰かが作っては誰かが壊して、作っては壊してを繰り返してきたというなかなかショッキングな歴史がありました。

ハイライト

ここから分かる大切なことがいくつかあります。まず、アーティストはいつの時代も理論にない新しい音にチャレンジしてきた歴史があるということ。斬新な音楽は必ず批判を浴びたこと。でも最終的には理論もそれを受け入れて変化してきたこと。

「理論」というと、もっと人為の入り込む余地のない合理的なものをイメージしていたかもしれません。でも基本的に(先述の現代音楽のようなパターンを除き)音楽理論というのはまず現実の音楽ありきで始まり、そこから統計的というか、経験論的に構築されていったものなのです。

このプロセスに関しては、言語と文法の関係性にそっくりです。まず言語があって、それに合わせて文法体系を作るんだけども、人々の言葉使いが変わっていくにつれ文法もまた再考しなきゃいけなくなる。そういうサイクルを、音楽と音楽理論の世界も繰り返しています。この例えで言うと、

そして理論はあくまで「基本の型」でしかないのだから、それを破ることは何ら問題ではない。それはクラシックの歴史自身が証明していることなのです。

とはいえ、彼らは従来の「型」をしっかり勉強したうえでの計算された「型破り」なのだから、私たちもその型をちゃんと学ぶべきなのか? という疑問はあるかと思います。これに答えるには、まずこの歴史の続きを見ていく必要があります…。

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