この記事は初学者に向けてではなく、すでに理論を学んだうえで用語の整合性を細かく認識したい人や、複数流派の様々な考えがある中で自由派がどれを採用した、なぜそれを採用したのかについて確認したい人に向けて書かれています。学習者向けに内容と文体を噛み砕くことはしていません。

音楽理論用語の中には、流派によって使われ方が異なったり、あるいは歴史の中で言葉の意味が広がりを持ち定まっていないものがあります。ここでは自由派音楽理論の基本的な用語の使用方針について述べます。ただし言葉の意味は時間とともに変化するものですから、今後も情勢の変化に応じて方針を変更する可能性はあります。

重大な前提として、以下に述べる用語の使用方針は、(1)自由派音楽理論がコンテンツを作る際に用語に一貫性を持たせるため (2)他流派の人間に対し見解の相違を明らかにするため に述べているものであり、学習者にこれを強いるものでは一切ありませんし、これ以外の解釈が誤りであると主張するものでも全くありません。自由派の大原則のひとつが、表記や用語の使用について自由意志に基づく選択が可能であることです。学習者においては、以下をひとつの見解として踏まえたうえで、最終的に自身の判断に基づいて自分の中での用語の使用方針を決定して頂きたいと思います。

方針を提言しないものについて

自由派は、流派ごとの多様性を認めることが大前提の流派です。そのため、自由派自身が理論を展開していくために必要な用語に対してのみ方針の明示を行い、それ以外の語については、流派ごとの見解や歴史上の変化をそのまま紹介するに留める、すなわち端的に言えば「必要のない論争に首を突っ込まない」のが基本的な方針です。

§1 Chord / Harmony

原則的に、Chordは「和音」、Harmonyは「和声」という訳語と対応させます。「和声」という言葉には、(1)配分、(2)配置、(3)声部連結 に関する情報(のいずれか、ないし全て)を含めて論じるという意味合いを込めます。
例えば自由派の参考文献のひとつである「コード理論大全」には「和音の繋がりを和声(Harmony)と呼び」とありますが、自由派はこれよりも狭義の言葉として「和声」の語を用いるということです。単に和音の繋がりをいう際には、コードの「進行(Progression)」ないし「接続(Nexus)」という言葉を用います。

また基本的に「コード理論」と言う場合にはそれはポピュラー系列のコードの理論を指しますが、序論においてはツァルリーノやラモーの和声論を便宜上「コード理論」と呼んでいます。これは、序論の段階で「和声理論」などと呼んでも意味が伝わりづらいだろうという懸念からです。

Melodic/Harmonic

一方でMelodic(旋律的)/Harmonic(和声的)という言葉は、もっぱらマイナースケールに対してあてられる名称としての印象が強いため、これらを汎用的な形容詞として使用することは基本的にありません。

§2 Key / Tonality

Keyは「key signature」「major/minor key system」といった表現に代表されるように、「メジャーもしくはマイナー」という古典派の二元論的世界観に基づいた語であり、Keyとはあくまで西洋音楽上の「システム」の一種であると捉えます。

Tonalityは日本語では「調性」と訳され、「調」とセットで扱われる単語ですが、自由派ではTonalityがKeyと密接に関わった言葉とはあまり捉えません。Tonalityは“Tone”という非常に広範な語から生じた単語であり、Keyというシステムの内部(下位)にも、Keyシステム外部の領域にある音楽においてもTonalityは存在しうると考えます。Tonalityという語の詳しい扱いについては後述します。

§3 Mode

「モード(旋法)」という語は、「教会旋法」や中国・インド・アラブ等の民族音楽での「旋法」と、コードスケール理論やリディアン・クロマティック・コンセプトでの「モード」との語義のあいだに多大な隔たりがあることが、多流派をまたぐ自由派としては非常に頭を抱える問題となります。

ここではまず東川清一氏が唱える「類・均・調・旋法・格」のシステムをベースにとります。すなわち、具体的な音高の指定(=均・調によって決定される部分)とは一切関係なく、「ある音階(類)に対して中心情報を付加することで、より有機的な音組織となったもの」を旋法とします。

類から旋法へ

その「中心」というのは、民族系の旋法音楽を論じるときの「旋法」においては「主音」ないし「終止音」を意味し、CSTやLCCがいう「モード」においては「コード・ルート」を意味します。
つまり、旋法音楽がひとつの旋法で一曲を構成するのに対し、CST/LCCは無数のモードを繋いで一曲を構成するという「モードの大小感覚」が異なっているだけで、二者の「モード」の語義は本質的に同一であると考えます。旋法という語の定義そのものに「中心情報」という含みのある語をとることで、全く用法の異なる「旋法」の語をうまく取りまとめようということです。

親・子の循環構造

「モード」がミクロな存在かマクロな存在か、言い換えれば上位概念なのか下位概念なのかというのは、特定する必要のないことです。本来的には「子」として生じたモードであっても、モード・ジャズなりメタル・ロックなりでそのモードをフィーチャーした楽曲が生まれる際に、今度はそのモードが親となって子となるコードを生じます。比喩的にいえば「成長して親となる」ことがあるわけです。この循環構造は理論構造上の必然であって、「“親”になった瞬間にモードと呼んではいけなくなる」ような定義をすると、「ではその瞬間とはいつか」という不毛な議論が発生します。したがって、そのような不要な制約をモードという語に課すことは避けます。

§4 Tonal / Tonality

自由派では、「Tonal」という言葉を「Modal」の対義語としては使用しません。Tonalは、あくまでも「Atonal」と対になる語であり、Modalと対になるのはむしろ先述のChordalであると考えます。
Tonalについてはより広義のもの、すなわち「ある音が中心として感じられる状態」を表す言葉として使用します。それはやはり、Tonalという語がToneという広範な語から生まれたものであることが大きな理由です。

Tonalは多くの和声学本で機能和声と結びつけて説明されますが、それは古典派和声学本だからそのように説明されるのであって、古典派和声が扱う領域の外側においてTonalが何であるかは、和声学本においては“述べられていない”という見解をとります。
たとえ「トーナリティは、機能和声が形作る音組織である」といった類の説明があったとしても、そこには「古典派的音楽においては」という暗黙かつ取り除くことのできない前提が存在します。このような場合に、「トーナリティという言葉は古典派和声学が作った言葉だから、その定義に全ての流派が従うべきだ」というのが保守的な見地ですが、「トーナリティという言葉は古典派和声学が作った言葉だから、彼らが想定していない領域においての用語の使用は、検討の余地がある」というのがリベラルな見地です。

実際に、近現代の音楽を領域に含めたうえでのTonal/Tonalityの捉え方について新しい提言もなされています。例えば「Music and Twentieth-Century Tonality(2012年出版)」に示される以下のような見解を、自由派は支持します。

In a texture where tonal centricity is ambiguous, the composer can assert it in different ways. He or she may choose to repeat a single note or chord that represents the desired tonal center in a prominent registral or metric position.

Paolo Susanni, Music and Twentieth-Century Tonality (p13)

そして同著p66にある次の一文をTonalという言葉に対する端的な定義として採用します。

  • Tonal music gives priority to a single tone, or tonic

Tonalという言葉をこのように定めたうえで、Tonalityという言葉については、そのような「priority to a single tone」を原動力として音階が形成する組織的性質(e.g. 導音が主音に対する傾性音として働くなど)がTonalityであるとします。

そしてTonalityには、程度の大小があるとも考えます。
例えばメジャースケールを用いて構築される音組織は、主音・属音・下属音それぞれから長三和音を構築でき、導音を有するといった点からTonalityが非常に明確です。「Tonalityが明確である」とは、「PriorityをもつSingle Toneがどれであるか明確」ということです。そのように捉えることで、例えば以下のような比較表現が可能になります。

  • ハーモニックマイナースケールが作る組織は、ナチュラルマイナースケールが作る組織よりも、導音を有するという点でTonalityが強固である。
  • 機能和声に基づく音楽はドミナントセブンスの解決を用いる点で、モーダル・ハーモニーに基づく音楽よりもTonalityが明確である。
  • しかしモーダル・ハーモニーに基づく音楽も、トニック・コードを用いて主音を明示するという点において、中世の教会音楽のようなモード音楽よりは、Tonalityが明確である。

ですから自由派の方針においてはモード音楽も民族音楽も、近代の音楽もTonalityを持ち得ます。これもまた、「Music and Twentieth-Century Tonality」の見解を引き継ぐものです。

If we accept this definition of tonality, we will realize that the larger portion of the world’s folk and art music can be categorized as tonal.
Paolo Susanni, Music and Twentieth-Century Tonality (p.66)

Tonalityを広義に捉える書籍はこれだけではありません。「和声の原理と実習」には以下のような記述があります。

調性には二つの異なった要素が含まれている。一つはいかなる音が主音として選ばれるかであり、一つは主音を起点とする音階各音間の音程関連である。前者は調を決定し、後者は旋法を決定する。調と旋法の両者が決定されるとき、はじめて具体的に調性が確認される。
島岡譲,外崎幹二 「和声の原理と実習」(p.239)

ここにおいては「主音」とそこからの「旋法」が調性という概念の中に含まれていると述べられており、TonalityとModeを対立する概念とはみなされていません。245ページではさらにこう続きます。

さきに中世の6種の旋法のうち、ただ2種のみが古典的調性として残った理由として、それが和声組織への適合性において他にまさっている旨を述べた。そこで今、和声的調性としてのそれらの優位性について述べよう。
島岡譲,外崎幹二 「和声の原理と実習」(p.245)

「古典的調性」「和声的調性」という言葉からは、当然ながら「古典的でない調性」「和声的でない調性」の存在が示唆されます。島岡氏のこれらの認識に則れば、例えばDドリア旋法は「古典的調性」ではないけども、主音と旋法が決定している点で「具体的に調性が確認される」と言えます。

語学/論理学の観点からの補足

先ほどもあったとおり、Tonalと明らかな対義語と言える語はAtonalであり、この二語は「a-」という接頭辞の意味からみて排他的な否定関係にあります。

排他的関係

もしTonalとModalを同様な「対照的かつ排他的関係」として捉えると、Modal MusicはAtonal Musicであるということになりますが、一般にAtonal Musicといえば近現代クラシックに見られる前衛的な音楽たちであって、モード音楽がAtonalであるという言い方には多分な違和感があります。これもまた、Tonal/Modalの対義語関係を自由派が採用しない理由のひとつです。

Tonalの語を広義にとることの意義は大きく、これにより、機能和声が作るファンクショナルな中心、キーシステムが作るシステマティックな中心、単一コードの反復が作るコーダルな中心、モード音楽におけるモーダルな中心、これら全てを包括する語として「Tonal Center」を用いることができます。多分野の音楽をなるだけ包括する音楽理論を目指す自由派にとって、この方針は必要なことなのです。
日本語の対訳で見ると、調(Key)は狭義をとり、調性(Tonality)で広義をとることで違和感が生じる可能性もゼロではありませんが、ここはTone-Tonal-Tonality(そしてAtonal)という英語での意味関係を優先します。

§5 機能

「機能」というものについて、自由派では「あるコードの、その調内における意味。展開上与えられた役割」と説明しています。前半部分はもちろんリーマンが1893年に唱えた内容そのものであり、一方で後半は、カデンツの構成論と機能論を結びつける後世の様々な機能論が存在していることをふまえての表現になっています。

自由派は、バークリーメソッドが唱える分類ではなく、クラシック系の流派(特に「島岡和声」)が唱える機能論を基本的なベースとします。それは、クラシック系流派の機能論の方が、リーマンが元来提唱した機能論の思想や姿を損なうことなく継承していると考えるからです。
一方、「新しい和声」が四機能制を採用していることからも明らかなとおり、機能はその数も基準もバラバラに定められているものです。自由派はそのうちのいずれかを正しいと主張することはせず、むしろそれを「音楽のスタイルが変わればふさわしい音楽理論のスタイルも変わる」という“理論のジャンル依存性”を示す好例であると捉えます。

多数の書籍を参照し、様々な流派の見解を鑑みれば、「機能」という概念がいかに人工的にデザインされ、改変されてきたものであるかが分かります。ですから例えばIIImがTDのどちらであるかの議論など、自由派にとっては「dim」が3和音を指すか4和音を指すかの議論と同程度のことであって、ことさら首を突っ込む必要のないものだと考えます。

§6 協和/不協和

基本的に自由派は、静的な分類をして理論を美しく完結させることよりも、程度の多寡や中間性、多重性を重視して論じるのが基本方針です。それゆえ「協和/不協和」についても、これをハッキリと二分する動機がそもそも自由派にはありません。
本編では「不協和音」という語も登場しますが、短2度、トライトーンといった明らかに不協和な音程を伴うコードに対する形容でしか用いておらず、用語というほどの扱いを受けていません。そのためこうした用語については、自由派から方針を提示することはいたしません。

§7 ドレミと階名

「ドレミファソラシド」は、原則的に階名として使用するのが基本方針です。しかし一方で、学習者たちがABCの音名に親しむまでの間、ドレミを音名として用いる“猶予期間”はあって然るべきだと考えています。準備編第2回で音名について学びますが、その直後から音名としてABCのみを用いることは、学習者へのかなりの心的負担を与えることが容易に想像でき、それは「学習コンテンツである」という当サイトの根本理念に大きく反するからです。

そのため準備編の音階や五度圏の記事ではドレミを音名として使用し、その後少しずつABCによる音名を交えていき、最終的に「階名はドレミ、音名はABC」形をとります。

階名の概念を学習者に植えつけていく課程を主として担うのはメロディ編です。こちらでは「調性引力論」を階名で学ぶことで、「ファと言えばミと半音関係を持つ傾性音」という風に、「ドレミ各音の調内の音楽的効果を階名とセットで記憶する」ことを推奨しています。これは、トニック・ソルファの思想に通じています。

一方でコード編では、あくまでもコード理論の仕組みを理解することに優先度があり、特に序盤においてその理解の妨げとなりうる場合、ドレミを音名として使用することを選んでいます。例えばコード編I章の「六つの基調和音②」ではまだ、「B♭メジャーキーの主音は「シ♭」ですから・・・」といった表現があります。

派生音に固有の階名の不採用

また、ミを「メ」、ラを「レ」と呼ぶ系統の階名システムは、現状では内容を読みづらくする危険が極めて高いため、採択しません。これには親しみやすいカタカナで階名を記したい(が、それだとReとLeの区別がつかない)という側面もあります。

教会旋法と階名

階名の本来の在り方を踏まえれば、例えばGミクソリディア旋法の主音であるG音は、階名では「ソ」と呼ばれるべきものです。しかし、メロディ編III章の教会旋法の解説では、一部で長3度系旋法の主音を一律でド、短3度系旋法の主音を一律でラと呼んでいる場面があります。

教会旋法を初学者に説明するに際しては、特性音を理解するためにパラレルなスケールとの比較が不可欠です。メジャースケール、マイナースケール、ミクソリディア旋法を並列して説明する際にそれぞれの主音の階名が異なっていると、スムーズな解説が困難であるどころか、極めて理解の妨げになることは確実です。このような比較の場合は階名ではなく音度を用いるのがよいわけですが、しかし「マイナースケールとミクソリディアはi・ii・iv・v・vii度の音が共通しており…」といった文章は、やはり著しく可読性に欠けます。それゆえここは、あくまでも学習者にとって読みやすい文章を作ることを優先しました。

同様の理由で、メロディ編IV章の一部記事においては、全ての旋法の主音を一律でドと呼ぶ場面があります。

階名システムに対する取組みの態度

自由派は根本的にリベラルの流派であり、「本来的にこうだったからこれが正しく、変えてはいけない」という判断を無条件に是としません(それは先述の「トーナリティ」の項目にあるとおりです)。

階名は既に、UtがDoに変わり、Siが加わり、一部流派でSiがTiに置き換わり、派生音に対する階名が考案され…といった変化の歴史線上に存在しています。これらは全てその時代のニーズに適合するために変化してきたのであって、それぞれ提唱当時に批判があったことは想像に難くありません。しかし彼らのそうした努力があったからこそ、階名は現代でも生き残っています。もしダレッツォが提案した時のオリジナルの原形そのままで誰も手を加えなかったら、階名は今頃絶滅していたかもしれません。

そのように考えたとき、現代を生きる私たちもまた、階名が後世まで生き長らえる存在であるために、必要な改善は勇気を持って提唱しなくてはならない、それは使命であり責務であるというのがリベラル的な態度です。階名が完全にRelativism(平行関係)を前提に作られているのに対し、現行の音楽や音楽理論ではParallelism(同主関係)がますます重要になっているという時代潮流は、階名にとっては危機と言える状況です。

ですからメロディ編III章・IV章における「オリジナル版に忠実でない階名の用法」は単に学習者への配慮というだけでなく、このような用法を“派生的用法”として認めるという考え、あるいはそのような議論が現代では成されてよいのではないかという見解の提示でもあります。

§8 重力と引力

メロディ編では、「調性引力論」というメソッドが展開されます。ここでいう「引力」とは、私たちの音響に対する心理・生理的反応、具体的には「不協和音程への解決欲求」「不安定音の解決欲求」「前後関係から生じる次のメロディの進行方向の期待」などを比喩的に表現した言葉です。既存の理論では「音重力」「調性重力」といった言葉が既に使われているので、それらとの違いをここに示します。

音重力

島岡譲氏は、「和声の原理と実習」で「音重力」という表現を用いています。

上行は音重力に逆らうことを意味し、下行はこれに順応することを意味する。したがって本来安定状態への鎮静を意味する解決は一般に上行でよりも下行で行われる方がその本性にふさわしい。
島岡譲,外崎幹二 「和声の原理と実習」(p.250)

ここにおける「音重力」とは(まさに地球の重力同様)常に上方から下方へと向かうものとして表現されています。一方で自由派の調性引力論においては、例えばシは全音下行するよりもむしろ半音上行する方が自然であるとし、♯系の変位音全般も上行指向を持つと捉えています。このような違いから、「重力」という表現を使うことを避けて「引力」という言葉を選びました。引力は重力と違い上へ働くこともあるので、語としての妥当性、棲み分けも適切であろうと考えています。

自由派ではこの「引力」と「重力」、それから理論の基本モデルからは捨象した「慣性」という3つの比喩をメロディ理論を説明する際の主要な比喩として用います。

Tonal Gravity

リディアン・クロマティック・コンセプトでは、「Tonal Gravity」、「tonal magnetism」という言葉が用いられます。これは完全五度の堆積関係において上から下へと重力が流れ、最終的にアルティメット・トニカル・オーソリティたるC音へ至るというものですが、この語と自由派の「引力」とは一切理論的関係を持ちませんし、この語を自由派のシステムの内部に用いることはありません。

§9 ファとシの傾性関係

英語圏では、Tendency(傾性)に関する書籍での言及やWEBコンテンツが多く存在しますが、そこでメジャースケールにおいて傾性が最も強いとされるのは、ファではなくシの方がマジョリティではないかと思います。

傾性の序列

むろんファの傾性を高く見積もるコンテンツは当サイトが初めてではなく、例えば当サイトの主要な参考文献のひとつである「The Barklee Book of Jazz Harmony」はファが最も不安定であるとしています。

the root of the IV chord is the least stable note in the key
Mulholland, Joe, Hojnacki, Tom – “The Barklee Book of Jazz Harmony” p.4

自由派が、現時点でマイノリティかもしれない方の見解を採択しているのには、以下のような考えに基づくものです。

(1)長7度への耐性獲得の歴史

傾性の大きな評価基準のひとつがトーナルセンターとの直接的関係性です。シを最強傾性とするコンテンツの理論構成を見ると、それは三和音を前提とする伝統的な体系から来るもので、つまり「メジャーセブンスコードは不協和音」であり「導音の解決は音楽の最も基本的な決まり」で「導音は和声配置において重複してはいけない音である」というような価値観からシの傾性を高く見積もっています。しかし実際には印象主義・ジャズ以降メジャーセブンスは予備や解決を必要としない落ち着いた和音として一般に受容されるようになりました。つまり、20世紀以降のIΔ7とIVΔ7のとてつもない繁用により、私たちは長7度の濁りに対する耐性をある程度獲得していて、それゆえトーナルセンターから長7度に位置取るシの音への「解決の欲求」は、心理学的側面から見て弱まってきていると考えます。「従来はダメとされたものでも聴衆が聴き慣れてしまえば許容される、そしてその反応を受けて理論が拡張されてきた歴史がある」という価値観は、自由派の根幹です。「解決しないシの許容」もそのうちのひとつであり、三和音中心時代の価値観をそのまま継承するのは不相応と考えます。

対してファはトーナルセンターと組み合わさった際にはIsus4のコードを形成し、強い解決の欲求を生みます。メロディにおいてこの4度が解決されないことは、IΔ7の7度と比べると依然として稀です。それゆえ「トーナルセンターと形成する直接的関係性」においてはまずファの方に軍配が上がるだろうというのが一点目で、かつこれが最大の理由です。

(2)トーナリティの確立論から

「傾性」とは我々が心理的に抱く「メロディにその場所で留まっていてほしくない、隣接する音度に移動してほしい」という感覚を表現した言葉ですから、「移動してほしい」という心理的欲求が発生する根源は、必ずしも周波数比から生じる濁りだけに起因しないという点も重要です(これは増4度/減5度、増2度/短3度、増6度/短7度といったエンハーモニックでの傾性の強度や方向の違いのことを鑑みれば明らかです)。これは、倍音や周波数の理論ばかりに視点が集中してしまうと、見落としてしまう観点です。

レラティヴ間での主音の「奪い合い」により傾性が変化するように、傾性はトーナリティと深い関わりを持ちます。二者は「ニワトリとタマゴ」のようなもので、特に「教会旋法」におけるトーナル・センターの確立過程において顕著なように、メロディラインの在り方がトーナリティを我々に植え付け、また植え付けられたトーナリティがメロディラインの感じ方に影響を及ぼすという循環構造があります。

この「認知の循環」において、不安定音が半音進行で解決する「シ→ド」と「ファ→ミ」は、主調(この場合メジャーキー)のトーナリティを確立させるための重要な動きです。そこへいくとシやファを長く伸ばす行為は、安定/不安定の関係性を転覆させるクーデターのようなもの、我々に異なるトーナリティを植え付けるきっかけとなる行為と言えます。
例えばシが主音に成り代わるとするとそれはシャープが5つ多い遠隔調への転調、対してファが主音に成り代わるならばそれは下属調への転調となります。比べたとき、前者は基調和音が全く共通していないのに対し、後者は(三和音で見れば)I,IIm,IV,VImが下属調にとってのV,VIm,I,IIImとなっています。そのため、「伸ばした時に調性を脅かす能力」に関してファの方が勝るだろうことが言えます。
また「ド→シ」と「ミ→ファ」という逆さまのモーションを考えた時にも、前者は属調の「ファ→ミ」、後者は下属調の「シ→ド」にあたります。やはりここでも、中音への解決よりも主音への終止の方がトーナリティを崩す力は強いと考えられます。

クロマティック・アプローチやブルーノートのような幹音でない音たちが強い傾性を持つ根拠のひとつとして「クロマティックな音の登場により揺らいだトーナリティが、隣接する幹音へ進むことでまた安定状態に戻ることを我々が心理的に期待している」という仮説に立脚するならば、同様にしてトーナリティを崩す能力に優れるファの傾性を高く見積もることには妥当性があると考えます。

(3)重力論から

#7で述べたとおり、島岡譲は“音重力”の存在を提言していて、自由派も現在これをメロディ編I章で簡潔に紹介しています。ファ・シがレ・ラと比べて強傾性とされる大きな理由として、安定音と半音関係を構築していることがあるわけですが、ファは下方に対して半音(=重力方向と引力方向が一致)、シは上方に対して半音(=重力方向と引力方向が逆さま)です。自由派の傾性論は「引力」と「重力」を複合的に論じるため、この点もまたファの方が高傾性とみなしうるひとつの要因となります。もっとも、これは影響として弱いものであろうとは思います。

(4)実践性の観点から

主和音だけに限らず、全てのダイアトニックコードとII7・III7・VI7において、シはいわゆる“アヴォイド”に分類されません(IImにおけるシをアヴォイドとする見解を自由派の体系内では否定しています)。対するファは、I,IIIm,VImというバークリー系分類におけるトニック群コードのいずれともアヴォイドであり、またIII7,VI7においても、ドミナントセブンスの特殊性から使用が認められてはいるものの、依然としてルートと短2度、短6度を形成し強烈な不協和を生みます。

実際には各コードにおける不協和の発生はシェル傾性と複合して論じるべきものであるので、これはファのカーネル傾性が強いことを示すための根拠とはなりませんが、ファをシより強傾性とみなす背景には、初心者の作曲実践においてこうしたアヴォイドに注意を向けやすくなるという実践的観点も含まれています。

(5)下方倍音の論理から?

むろん傾性の根拠を上方倍音列での次数との相関に求める書籍もあるので、そのストーリーに乗っかるのであれば、逆に下方倍音列での次数と傾性には負の相関があるという仮説を立てることも、可能ではあります。ただし現状そこには論理の飛躍や整合性の不完全さが認められるため、それを根拠として主張はしません。あくまでも(1)〜(4)のみで、ファがシよりも傾性において勝るという前提で体系を構築しても理論の正当性が損なわれないと考える理由として十分だと考えます。

§10 「音楽理論」という名乗り

自由派は序論にて、標準となる音楽理論が存在しないこと、どの理論も“特定の音楽のための”理論であることを示し、それゆえ「ジャズ理論」「クラシック理論」といった表現を本編中でよく用います。その一方で“ポピュラー音楽のため”の理論である自由派が「自由派音楽理論」と名乗ることに対し、ある種の傲慢さ、ないし矛盾を感じる方もいるでしょう。すなわち、「自由派“ポピュラー”音楽理論」と名乗るべきではないかという問題点です。

自由派にとっての「音楽理論」

序論においては、『音楽理論って、ひとつじゃないんです。単一の「正しい音楽理論」なんて存在しません。』という主張がなされます。しかしこれは、音楽理論と呼ばれるものたちの中身が様々であり、いずれかひとつが正しいわけではないということを述べているだけであって、「彼らは“音楽”理論を名乗るべきではない」などという主張をしているわけでは全くありません。

自由派は、誰しもが(手前に形容詞のない)「音楽理論」という言葉を自らの理論に使う自由を有していると考えます。なぜなら、すべての時代のすべての音楽をインデックスした理論書などこの世に存在せず、またすべての時代のすべての人間に通用するユニバーサルな理論など無いに等しいからです。
「音楽理論を名乗るからには、すべての音楽を網羅したものでなければいけない」という類の主張は、「すべての時代・すべての地域の音楽、そして編曲・音響物理・音韻など音楽の全ての分野を網羅する理論が存在しうる」ことを前提にして成り立ちます。しかしそのようなコンテンツを作ることは、現実には不可能です。

限定性を持つことは理論の必然であり、すべての音楽理論は何らかの形でローカルなものであり、「音楽理論」の名を冠する全てのコンテンツには情報の偏りと捨象が必ず含まれていて、それを見極める情報リテラシーを持つ必要があるというのが自由派の思想なのだから、自由派自身が自らを「音楽理論」と名乗ることは、何ら矛盾をきたしません。

自由派が扱わない領域への配慮

また自由派が自身の扱う範囲外の音楽に対して配慮をしていることはコンテンツをきちんと読めば明らかなことで、まず序論で非西洋音楽の理論が存在することにふれ、「音楽理論を学ぶか決める」でも再度同様の内容にふれ、準備編にて長音階/短音階があくまで「西洋音楽」の基本であることを示し、調性の回では無調音楽とノイズ・ミュージックにふれ、これもまた自由派の範囲外であることを説明し、メロディ編I章「様々な音階」で四半音の概念等西洋音楽を超えた領域について再び知らせ、III章で「教会旋法」の存在やケルト音楽やスペインの音楽にふれ、ジャズ理論の本山である「コードスケール理論」の中においてさえ、アラビック・スケールを紹介し『先の記事で説明した21個のコードスケールはみな「西洋音楽」の基本であって、それより外の世界がまだまだある。そのことを忘れないでほしいのです。』と注意を加えており、「自由派が“音楽理論”と名乗っているがために、ここで紹介されている内容が音楽の理論の全てだと勘違いしてしまう」というような懸念は全くあたらないと考えます。

自由派は“ポピュラー音楽理論”でもない

またそもそも自由派音楽理論は、クラシックの体系・ジャズの体系・ロック音楽の体系など、それぞれ内容の異なる体系を俯瞰することで包含しようとする特殊な体系です。さらには近代クラシック、教会旋法や民族音楽に関する部分も、特にメロディ編においては「傾性論」の一部として体系の内側に含まれており、実際のところ自由派は「ポピュラー音楽理論」ではありません。あくまで「ポピュラー音楽をメインターゲットとした音楽理論」です。この「他流派のクロスオーバー」という観点からしても、自由派は「音楽理論」としか名乗りようがないのです。

言語コミュニケーション上の性質

また、このタイプの語の省略は、音楽理論に限らずあらゆる言葉で行われているものです。例えば一般に「英文法」と言えばそこに「古英語文法」は含まれませんし、中等教育において「幾何」といえばそこに「非ユークリッド幾何学」は含まれません。より一般的なレベルで言えば、「ドラムセット」といえばキック・スネア・シンバルからなる“あのドラムセット”を第一に指しますし、「パンダ」と言えば第一に「ジャイアントパンダ」を指しますし、「信号」と言えば第一に「交通信号機」を指します。

こうした語の簡略的表現に関して、他の語を無視し排斥しようというような意図など何ら込められていないことは明らかであり、「いま最も一般的なもの」が自身の詳細なカテゴリ名を省略することができるというのは、思想哲学と何ら関係のない言語コミュニケーション上の必然的性質にすぎません。

§11 主観的表現の使用

本編では「明るい/暗い」に代表される聴覚の印象に対する感覚的な表現が、多数登場します。

  • 「ファ→ソ」は何か”自然な流れに逆らう決意めいた力強さ“が感じられる
  • 四七抜き音階は「オリエンタルな響き」がする
  • VIの和音は「希望が差したような情感」が生まれる
  • ミクソリディア旋法は「力強さ」「明朗さ」を想起させる

こうしたあからさまに主観的な表現をあえて用いているのは、以下のような考えに基づくものです。

できる/できない論からの脱却

従来の理論の問題点として「禁則」の方にばかり目が行きがちですが、「〜が可能」という説明方針も問題です。学習者はIVをIImに、VImをVI7に代理“可能”と教わりますが、しかし「変えたらどう聴覚印象が変わるのか」について教えてもらえなければ、結局ある場面において代理するのかしないのかの判断基準は「感覚」に委ねるしかないということになります。

サウンドバランスに関する理論である和声学や、即興演奏・楽曲分析における音楽の形式化であるバークリーメソッドとは違い、自由派音楽理論は主体的な選択に基づく作曲のための理論であり、「音響」と「聴覚印象」とを結びつけて記憶するための言語として理論があるというスタンスをとっています。したがってその“学習”コンテンツであるSoundQuestにおいて、理論をいかに表現と結びつけるかの態度を学習者に例示することは、学習者が理論の主体的な活用を行えるようになるために必要なことだと考えます。

より平たく言えば、「たとえ主観的な表現になってしまうにせよ、おおよそ一般に認められる音響の印象を言語化することには、デメリットよりもメリットの方が勝る」と考えているということです。この発想もやはり、「解説書」と「学習書」の性質の違いから来るものです(もし仮に自由派音楽理論の“解説書”があるとしたら、ここまで主観表現を用いることはないでしょう)。
学習者が特定の主観的表現に音の印象を左右されてしまうのではないかという懸念に対しては、本編中で代表的には「クオリティ・チェンジ」の記事にて、あくまで言語化の一例であることを説明しており、また「E型の接続」の記事でも再度注意書きをしており、十分な注意喚起がなされていると考えます。

音楽理論の主観性の理解促進

そもそも音楽理論の大部分は主観の集合体であり、本当に科学的・演繹的に証明されている事柄は「周波数比が単純であるほど音はよく協和する」くらいしかありません。これでさえ「濁り」「緊張と緩和」という言葉に置き換えられた時点で、それは「主観的な表現」になってしまいますし、もっと言えば「協和・不協和」という言葉ですら、その定義はトートロジックなものであり、その基準や境目は主観の集合体にすぎません。音楽理論は音に対する我々の脳の反応を説明しようとするものですから、本質的に「主観の集合」にならざるを得ない存在です。

そのような主観の集合、場合によってはローカルルールでしかないものを、あたかも客観的・科学的であるかのように教えることこそ欺瞞であり、学習者に対して誤った音楽理論の姿を植えつけるものであるから、あえてコンテンツそのものがあからさまに主観的な表現を用いることで学習者の頭から「音楽理論=科学的」という神話を取り除き、そのうえで各人に各人の言語による主体的な記憶を推奨することが、むしろ正しい理論への理解に繋がると考えます。

こうした主観表現はあくまでも「SoundQuest」という学習コンテンツが発する内容であって、「自由派音楽理論」の体系内部にそうした表現が決まった用語として含まれているわけではありませんし、学習者に同一の表現を用いることを求めるものでもありません。