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さて、VIII章はいよいよ古典派クラシック理論とモダンジャズ理論のどちらにもあてはまらない特殊理論や、流派を超えた和音の解釈といった、研究的要素の強いマニアックな領域へと進んでいきます。ここでは、それにさしあたって極めて重要となる理論を先に紹介したいと思います。

1. メタ音楽理論

「メタ○○」という言葉があります。「次元が上の─」とか「超─」といった意味を持つ接頭語です。

アニメ「くまのプーさん」に登場するネズミのゴーファーは、「俺は原作には登場しないんだけどな!」といった自虐ネタを言うことでおなじみです。アニメの中のキャラクターが“原作”という“外の視点”を理解している構図が面白いわけですが、このときゴーファーは「アニメの世界」という次元を超越して、私たちと同じ現実世界の立場からコメントをしています。この「次元が上」の発言を、「メタ発言」といいます。

「メタ」という言葉にはこんな風に、「本来いるべき次元(≒視点)よりもひとつ上の次元から」という意味があります。

メタとしての自由派

自由派音楽理論も実はゴーファーと同じです。ひとつ次元を上にした視点で物事を見ることが何度もあって、序論の流派話がその典型です。

多様性の包含

同じ「音楽理論」を名乗っているくせに、他流派の理論を外から眺めることを頻繁にしていますよね。考えてみれば、これはちょっとズルイことです。本来「音楽とはこういうものである」というのを提言するのが音楽理論なのに、自由派は「今の音楽理論の世界はこうなっている」という、“外の視点”からの発言をたびたび行っているのです。

これは、音楽理論が本来いるべき次元よりもひとつ上の視点に立っているのですから、紛れもなく「メタ」の一種です。

メタの視点

音楽を論じるのが「音楽理論」なら、音楽理論を論じる理論は「メタ音楽理論Meta Music Theory」です。「音楽理論論」と言ってもよいかもしれません。

自由派はこれを明からさまに行っているという点では特殊ですが、別に既存の音楽理論に「メタ音楽理論」が含まれていないわけではありません。一般的なポピュラー理論でも、「クラシック理論ではDからSへの進行は禁則と言われますが、ポピュラー音楽においては…」みたいな語りはありますよね。あの瞬間はやっぱり、音楽ではなく音楽理論を論じています。

こんなことはこれまでことさら説明はしませんでしたが、メロディ編・コード編のコンテンツは通してずっと、「音楽理論」と「メタ音楽理論」を混成させた状態で作られていました。「接続系理論」も実はまとめていたのは音楽ではなく音楽理論だし、「変位・転位系和音のまとめ」で表記の違いをまとめていたところなんかもそうです。この“メタの往来”は当たり前のことであって、普段は特に気にすることもなくこの二者を行き来しています。

ではなぜ今更こんな話をするかというと、この「音楽理論」と「メタ音楽理論」の区別がこの先からは極めて重要になるからです。

音楽を論じること、音楽理論を論じること

私たちがそもそもなぜ音楽理論を学んだかといえば、音楽を正確に理解するためです。ギターを弾ける人は、コードが鳴らせる。でもそこにある「ドミナント機能」とか「ピボットコード」とかいった性質は理解していないか、していたとしても感覚的にです。それを言語化・組織化することでどれほど見える世界が変わったかは、もう体験済みですよね。「好き・嫌い」のレベルを超えて音楽を客観的に論じるのであれば、音楽を理論化しないと不便です

音楽 - 音楽理論

全く同じことが、音楽ではなく音楽理論にも言えます。音楽理論を知っている人は、音楽理論を利用して音楽を分析することができる。でもその理論がどんな性質を持っているかまでは理解していないか、していたとしても感覚的にです。「好き・嫌い」のレベルを超えて音楽理論を客観的に論じるのであれば、音楽理論を理論化しないと不便なのです。

音楽理論 - メタ音楽理論

これまでであれば、理論体系の評価は感覚的でかまいませんでした。例えばジャズ的思考で音楽をする人間にとっては、ジャズ理論系の方が感覚的に合う、実践のスタイルに合う。クラシック系の捉え方は肌に合わない。そうやって感覚的に選び取っていけば自分にとって最適、実践力のある理論を構築することができますのでね。

でもここから先を進んでいくには、それだけだとちょっと足りません。音楽理論音楽を論じるのではなく、音楽理論論じる場面が増えてくるため、そこで好き嫌いなんて言ってたら話が進まないのです。

好き嫌いの向こう側

「音楽」に好き嫌いがあるのは当たり前ですし、好きなものを好きであることに、理由は要りません。嫌いなものを嫌いだということもそうです。でもある音楽が「ダメだ」とか「劣っている」とか言うのであれば、そこに伴う責任の重さは全く違います。少なくとも音楽理論を知ることは必要で、それではじめて主観と客観を切り離すことができ、健全な議論のスタート地点に立てます(実際のところ、理論を深いレベルで理解した後となれば、音楽の優劣を論じることがいかに難しいかにも気がつき、そのような子供じみた発言はしなくなるわけですが)。

これはひとつ次元を上げた「音楽理論」の世界でも、完全に全く同じことが言えます。

「音楽理論」に好き嫌いがあるのは当たり前ですし、好きなものを好きであることに、理由は要りません。嫌いなものを嫌いだということもそうです。でもある音楽理論が「ダメだ」とか「劣っている」とか言うのであれば、そこに伴う責任の重さは全く違います。少なくとも音楽理論の理論を知ることは必要で、それではじめて主観と客観を切り離すことができ、健全な議論のスタート地点に立てます。

メタ慣れする

ふだん私たちは音楽理論を感覚的にジャッジすることにあまりにも慣れているがゆえ、ある評価が感覚によるものであるという意識そのものが希薄です。

例えば「クラシック音楽をロックのフェスで披露したら全然盛り上がらなかった。クラシック音楽はダメな音楽だ」なんて言ってる人がいたら、即座にそれは「いや、あんたのチョイスがおかしいんでしょ。そんなの言いがかりじゃん」と判ります。しかしこれが一次元上になって「クラシック理論に沿ってロック音楽を作ってもカッコよくならなかった。クラシック理論はダメな理論だ」となると、いくぶんマトモなことを言っているかのように聞こえてしまいます。でも本当は、どちらも同じくらいの暴論です。

もちろん「クラシック理論はロック音楽には“適していない”」というのは真っ当な主張です。しかしそれは理論の運用論であって、体系の“外”にある問題です。もしその問題を真に受けてクラシック理論の“内”を改造してしまったら、「クラシックのための理論」という本来の目的が果たせなくなってしまって、本末転倒でしょう。

こんな風に体系内部の問題と外部の問題を切り分けたり、自分自身が理論に対し抱いている「べき論」による評価を安易に持ち込まないためには、メタの視座があった方が断然強いのです。そういった論点の分離を、ここではアイソレーションIsolationと呼びます。

やるしかないのだ

もし「理論の理論」なしに「理論」を批評することを“できる”と言ってしまったら、それは理論のパワーを信じてここまでやってきた自分自身を否定してしまうことに他なりません

ダブスタの発生

だからここまで来たらもう、上に行くしか道はないのです。メタ音楽理論を構築して、もうひとつ高次の視点を獲得する。それにより、音楽理論を感覚的に好き嫌い言っていたレベルから、より理論的に理論を論じられるレベルへと引き上げていこうというのが今回の主旨になります。当然ながらここから述べる音楽理論の理論化の方法は、様々な流派を横断しようとする自由派音楽理論独自の内容になります。

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