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長調・短調の区別について

さて、コード理論の詳細に入っていく前に、その根幹である「キー」について、準備編の内容をもう少し踏み込んで解説したいと思います。

1. 長調・短調という区分

一般的な音楽理論では、音楽は「メジャーキー(長調)」と「マイナーキー(短調)」に分けられるという前提で理論が作られています。音階も「メジャースケール(長音階)」「マイナースケール(短音階)」があって、中心の位置によってそれが区別されるという話は、準備編でありましたね。

長音階

「全全半全全全半」で並び、明るい印象を持つ音階。

音階の例

短音階

「全半全全半全全」で並び、暗い印象を持つ音階。

音階の例

この二人は“親戚”ということで、この関係を英語で「レラティヴ」というのでした。

でもコレってやっぱり、釈然としませんよね。白鍵だけを使って作曲したとしても、それが「Cメジャーキー」か「Aマイナーキー」のどっちにも分類される可能性があって、しかも判断基準はどっちを中心に感じるか次第なんて、全然理論っぽくない…。

音楽理論界はもちろん、感覚で物事を進めていたわけではありません。実はクラシックの理論だと、この2つはすごく厳密に分離されているのです

2. 古典派クラシックと調性

クラシック界は、長調/短調がハッキリと分かれるようにルール決めをしました。長調は明るく、短調は暗くなるように、長調/短調それぞれで使うコードを制限するというシステムにしたのです。(これこそ、後付けであるはずの音楽理論になぜか“ルール”がある理由の一つでもあります。)

だからクラシックの曲は、概ねタイトルに調の名前が入っています。作ってから「どっちかなあ」じゃなくて、今回は長調にする、今回は短調にすると決めて作っていたのです。

結果、長調は「運動会の日の朝か」ってくらいトコトン明るく、短調は「身内が死んだのか」ってくらいトコトン暗くなります。

古典派クラシックには、生と死、出会いと別れ、歓喜と悲嘆、愛と憎悪…そういった相反するテーマを長調/短調で表現するという発想があります。例えば最初は短調で始まった曲が最後には長調になって終わることで、ハッピーエンドを表現するとか。そういう観点からしても、長短のコントラストは明確である必要がありました

二元論

長調と短調を鏡写しの対称的な存在として捉えるクラシックの考え方は、二元論Dualism/デュアリズムと言われます1
ジャズ流派も、クラシックほど厳格なルール作りはしていませんが、長調/短調を二分する考え方自体は継承しています。

3. ポピュラー音楽と調性

しかし時代が移ろうにつれ、より複雑な感情を表現したいと思うようになると、長調と短調を対置するトレンドも廃れていきました。明暗を織り混ぜることで生まれる新しい表現が次々と生まれ、古典派から約300年が経った今ではメジャーキー/マイナーキーのどちらともいえない曲は当然のように存在しています

例えば2016年に出されたこちらの記事では、「曖昧なキーが曲をエモくする」などの見出しと共に、現代のポップスにおいてはキーの曖昧さがヒットの鍵であるのだという分析が掲載されています。

記事中で紹介されている「アメリカで2016年のトップチャート40位以内に入った、キーが曖昧な曲たち」のSpotifyプレイリストを聴いてみてください。

上にあったクラシックの長調/短調ほどクッキリした明暗になっていないということは、聴いた印象で十分に分かるかと思います。

それもそのはず、現代ではいくら長調といっても“運動会の朝”ほどの明るさが欲しいことは滅多にないし、逆に短調といっても“身内が死んだ”ほどの暗さが欲しいことはそうそうない。現代人が求めるのは「切なくも懐かしい想い出に浸る」とか「人生迷ったりもするけど強く生きよう」とか、そういう明るさと暗さの狭間にある玄妙なテーマで、つまりは古典派クラシックが中途半端だからと除外したエリアこそ、現代のポピュラー音楽が必要としている表現域なのです。

中間領域

これは、例えばシナリオ作りの分野で単純な勧善懲悪が飽きられて、「正義の反対はまた別の正義」「悪の親玉にも実は悲しい過去が…」みたいに複雑な構図が求められているのに似ています。

この傾向は21世紀以降ドンドン顕著になってきているため、最近ではいよいよ本格的な理論書でもそれを説明するものが現れはじめました。

中心音をハッキリさせない方法を選ぶことで、音楽はより輝きや浮力を帯び、我々の興味をそそり、おそらくはより魅力的になる。(中略) このハーモニーの動きの拡張は、それ無しでは不可能だった多くの選択肢、より強大な表現の自由を私たちに与えてくれる。
Perricone, Jack. Great Songwriting Techniques (p.146/p149)より翻訳

これはあのバークリー音楽大学の学科創設者のひとり、ジャック・ペリコーン氏が2018年に出版した、379ページにおよぶ理論書の中の一節です。

つまり、「音楽は長調か短調のどちらかに分かれる」という説明は、ちょっと語弊があります。「音楽は長調か短調かに分けて昔の人たちは作ってた」というのが実際のところなのです。

Check Point

あるメジャーキーには、対になるレラティヴ・マイナーキーが必ず存在する。対になるキーは音階の構成音が同じなので、制約なく曲を作っていれば自ずとキーの長短は曖昧になる。

これを良しとしない古典派クラシックでは「長調」「短調」を明確に定義し、それぞれ使うコードを限定することで、キーの長短を明確に区別する“二元論”的システムを作り上げ、そのルールに即した作曲を行ってきた。

一方でポピュラー音楽ではそのようなルールは守られないため、キーの長短は曖昧なることも普通の話で、むしろそれがトレンドになってきている。変わっていく現実に理論が追いつけていない現状がある。

自由派の考え方

そんなわけで、明暗の中間域を求めるポピュラー音楽にとって、「長調or短調」の二元論を土台にして組み立てていく従来型の理論構築では、メリットよりもデメリットの方が目立つことになります。

  • 長調ではこう、短調ではこうという不必要なルールを覚えることになる
  • 長調短調をクッキリ分ける型から入るから、現代的な「どちらとも言えない曲」を作りづらくなる
  • 長調短調で分けて説明するから、覚える内容量が単純計算で2倍に膨らむ
  • 現実世界が古典派の様式に従っていないので、理論と現実のギャップに苦しむことになる
  • 「どちらとも言えない曲」を分析する際に、まず長調/短調のどっちとみなすかで困ってしまう
  • そういう曲は人によって解釈が割れてしまい、分析の内容も大きく変わってしまってミスコミュニケーションの原因になる

よく音楽理論が「現実では破られてるから意味ない」とか「覚えるのが大変」とか言われる理由の一端が、確実にここにあります。それゆえ、自由派はより現実に即した形式として、長調短調をワンセットにした形で理論を展開します。

双子

ワンセットといっても、長調・短調という概念そのものを無くすわけではありません。ただ、「長調短調の中間くらい」という状況があることをきちんと認めた方が現実的だよねというだけです。

中間状態

こう考えることで、ペリコーン氏の言うとおり「より多くの選択肢」 と「より強大な表現の自由」をゲットすることができます。現実に追いつけなくなった古い部分をカットしていくことで、体系をスリムかつ実践的にしていくというのが、自由派の発想です。

従来の理論が白黒はっきりつける「二元論」なら、自由派はその仕切りを取り払った「一元論Monism/モニズム」、もしくは様々な明るさの色を認めるという意味で「多元論(pluralism)」的であるとかいう風に言えますね。

調性のモニズム (Monism in Tonality)
「レラティヴ」な関係にあるメジャーキーとマイナーキーは本質的に繋がっていて、その都度のメロディラインやコード次第でその狭間を揺れ動くという、キーの「中間状態」ないし「重なり合わせの状態」を想定する考え方。

やっぱり21世紀の音楽理論のキーワードは、多様性なのです。


これでまず、「音楽はこうあらねばならない」という大きな押し付けのひとつから解放されました! この調子で、禁則ゼロのままコード理論を網羅していくのです。また、伝統的なクラシックの様式についてはⅦ章できちんと扱いますのでご安心ください。

まとめ

  • あるメジャーキーと、その“レラティヴ”であるマイナーキーの境目は曖昧で、どちらのキーかハッキリしない状態というのも現実にはありえます。
  • クラシック理論ではその事態を避けるため、長調と短調を明確に区別し、対照的・対称的な構造になるようにシステムが組み立てられています。
  • 自由派では現実との整合性を保つため、「長調と短調の中間状態」の存在を認めて理論の中に取り入れます。
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