根音省略による機能同一視について

ホーム チャンネル 音楽理論 自由派音楽理論 根音省略による機能同一視について

  • このトピックには5件の返信、4人の参加者があり、最後にestaraquiestaraquiにより3年、 1ヶ月前に更新されました。
6件の投稿を表示中 - 1 - 6件目 (全6件中)
  • 投稿者
    投稿
  • 月屑
      月屑

      こんにちは、たびたびお世話になります。
      質問・ご意見頂戴したい照会です。

      「根音省略」についてですが、解説しているところによっては

      • Ⅴ9は根音省略してⅦm7♭5に可能

      とⅤにのみ閉じて記載しているところもあれば、

      • ○○は××の転回系の根音省略と見れるからだいたい同じ

      のように、(ちょっと同一視するにはそのコード達は遠縁すぎないかな)のような説明根拠に使われることも目にします。

      そこで正解が知りたいというよりも、ご意見的にお伺いしたい照会となります。

      例えば、機械的に「構成音が似ているから省略しても機能的に同一視可能」という論理であれば

      Bm♭5≒Bm7♭5
      ≒Dm≒Dm7
      ≒F≒FM7
      ≒…省略…
      ≒G7≒Bm7♭5

      と3度堆積で一巡同一視できてしまうように思います。(あれ、全部同じじゃん)

      皆さまはは以下についてどう響きますでしょうか?
      「同一視できるor同一視は厳しい」「○○という条件下に限っては同一視できる/できない」などなど聴感や事例をお伺いしたいです。

      ・CM7≒Em7
      ・Dm7≒F
      ・Em7≒G
      ・FM7≒Am
      ・G7≒Bm♭5
      ・Am7≒C
      ・Bm7♭5≒Dm

      以上、よろしくお願いいたします。

      アンドロメダ
      アンドロメダ
        アンドロメダ

        初学者ながら一つ自分の意見を述べさせていただきます。

        まず、「同一視」というよりはあくまで「類似」という言葉の方がいいかもしれないと思います。というのも、月屑さんもおっしゃられているように、構成音がほぼ同じなら機能も同一、とすると「どんどん繋いで行けば何でも等しくなる理論」のように明らかにおかしい結論が出てしまいます。ですのであくまで「構成音が似通っているなら響きも似たものになるが、だからと言って同じ訳ではない」と考えるべきだと思います。

        次に、後半の和音についてですが、
        (ここからは完全に自分の感想)
        Cキーだとして

        CM7-Em7 はかなり別物に聞こえる(Cの音の有無が大きく安定感に差をもたらす気がします、テンションを積めば積むほど差はなくなる印象)

        Dm7-F はそこそこ似ている(どちらもG7の前に置かれがちだし、浮遊感も似ているけれども、Dがあることで少し安定感というか、どっしりした印象がある)

        Em7-Gは 場合によってはかなり別に聞こえる(Gは「タメ」という感じでサビ前に鳴らすいわゆる半終止みたいな使い方をするが、Em7ではこれはあまり見ない、またEm7はFから、またはFへと進行するパターンもあると思いますが、Gのそれとはまた意味が違う気がします)

        FM7-Amは 少し似ている(ポップスの曲だとだいたい少なからずマイナーに寄ると思うので、Amは安定感がある印象、FM7はギターなどで弾くと一個一個の音が目立たないからかAmっぽく聞こえることもあるかな、という感じです)

        G7-Bm♭5は 2つの場合による(Bm♭5をE系統のコードに繋げるか否かでかなり変わると思います。7thや9thを積んでいくにつれ、また転回してしまうと結構分からないこともあるかもしれない)

        Am7-Cは そこそこ似ている(単体で聞くとGの音の質感がはっきりと違うような気もしますが、実際の曲中だとCが暗さにかき消されたり、Am7も暗く感じなかったりする印象。もっとも6451や4356のような定番パターンならAm7は暗さが前面に出て間違いなく聞き分けらると思いますが)

        Bm7♭5-Dmは かなり似ている(曲のジャンルにもよりますが、ウワモノや他の音の配置によって、Bm7♭5はトライトーン感があんまり無いこともあるような。ただ、E系のコードに接続するならBm7♭5の方がパワフルなので聞き分けやすいような気がします。DmからEに流れるパターン、Bm7♭5からわざわざEmに行くパターンなどはそこまで馴染みがない気がします。)

        個人的な意見をつらつらと述べましたが、参考にしていただければ。他の方の意見も是非聞きたいです。

        月屑
        月屑
          月屑

          アンドロメダさん

          ご返信・貴重な聴感ご意見ありがとうございます。
          とても興味深いです。

          「同一視」はそうですね。同一と言いたいわけでなく「同一のように類似に見なせる視点」という意味合いでした。語弊ある表現ですみません。

          本トピックなのですが、実は以下の仮説を立てており、そのような聴感は他の方にも現れるかなって思っていたので、ご記載の内容を拝見してわくわくしています。
          以下僕の勝手な仮定・解釈です、すみません。

          ■仮定

          1. 和音機能は5度下へ引力を持つ(本サイトのB型接続)
          2. 和音機能は2度上下へ引力を持つ(本サイトのC型接続)

          ■根音省略で類似する件に適用すると
          X(例えばG7)の根音省略がY(Bm♭5)であるとしたときに、
          X(G7)の5度下(C)への引力をY(Bm♭5)の2度上(C)の引力に置き換えることが可能
          (G7→CをBm7♭5→Cとおおよそ同じように感じる)

          ■具体例

          • CM7-Em7で言えば、Fへ進行する際に機能類似/代理的になる
          • Dm7-FであればGへ進行するときに〃
          • Em7-GであればAmへ〃
          • F-AmであればB♭へ〃
          • G-Bm7♭5であればCへ〃
          • Am-CであればDmへ〃
          • Bm7♭5-DmであればE7へ〃

          という主張です。接続で書き換えれば

          • CM7→FをEm→Fに置き換え
          • Dm7→GをF→Gに置き換え
          • Em7→AmをG→Amに置き換え
          • FM7→B♭をAm→B♭に置き換え
          • G7→CをBm♭5→Cに置き換え★トピック元に記載のⅤにのみ閉じて~の話
          • Am7→DmをC→Dmに置き換え
          • Bm7♭5→E7をDm→E7に置き換え

          という置き換えにおいておおむね類似性が生じる、という仮定です。

          ご記載いただいた、Dm-FでG7の前に置かれてそこそこ似ていると感じる聴感や、
          Em-GのGをタメとする際は似ていない件、(これはタメに感じている=深層ではCを見据えてる心理なのかな、仮定を当てはめるとこの感覚と類似するのはG-Bm♭5なので、Em→AmとG→Amの類似性だとどうでしょうか?)
          EmがFへ進行する際の聴感がGからのそれと似てないと感じる件(これも仮定に当てはめればC→FとEm→Fの類似性に個人的に感じるのですが、こちらだとどうでしょうか)など、とても興味深かったです。

          Bm7♭5-Dm

          Bm7♭5の方がパワフル

          は確かにそんな気がしますね。ここにはなんとなくもう1個深い話がありそうな気もします(そもそもハーフディミニッシュという不安定さが、その和音に留まりたくなさとしての動力を持つのかも…?)

          貴重な聴感ご意見ありがとうございます!
          まだまだ色んなご意見ちょうだいしたいです。

          アンドロメダ
          ひるりゅー
            ひるりゅー

            僕もアンドロメダさんと聴感的には同じです

            テンションを積めば積むほど響きが曖昧になってわからなくなってくるイメージ

            月屑さんの言っていた仮定に関して、僕も同じことを思っていて、

            5度下への引力を2度上への引力に置き換えられる」と考えてます

            トピック元に記載されている「V9は根音省略してⅦm7(-5)に可能」っていうのも、
            「(Cに繋げる時の) Ⅴ9は根音省略してⅦm7(-5)にしてもいいよ」みたいな感じに聴こえます

            僕の聴感でもC → FとEm → FEm→AmとG→Amの類似性は高い気がするので……

            そういえばF#m7(-5)をトニックとみなす考え方って、F#m7(-5)にAmの構成音が入ってるから何ですかね?

            つまりF#m7(-5)≒Amってことになる…?

            本題からは外れる気もしますが、ちょっと気になりました

            月屑アンドロメダ
            月屑
              月屑

              ひるりゅーさん

              聴感ご意見ありがとうございます。
              同じ感覚を憶えられてるという点、大変興味深いです。

              そしてF#m7(-5)をトニックとみなす、とご記載の点も考えてみました。
              といっても、F♯m7(-5)をトニックとする理論体系での正解はその体系にお詳しい方にお願いするとして…(汗)
              以下個人的な聴感を元にした意見となります。

              個人的聴感で言えば、

              • 雰囲気として、Am6がニアリーだ

              というのは1つあると思います。
              ただ機能(雰囲気という観点は置いといて、どこに行きたい/到達しきったという進行感)だけに着目して言えば、例えば
              F→G→E7→Amという進行でAmの代理としてF♯m7(-5)を用いた、というシチュエーションを考えたときに

              • E→Amの5度下への進行したい感&その達成感

              • E→F♯m7(-5)の2度隣へ進行したい感&達成感

              に置き換えてるのかなと感じました。
              先の仮定の1と2である5度下のB型進行による到達感2度隣というC型進行の到達感に置き換えた感じです。

              雰囲気を除外するために、ベースだけで考えるとこの引力的なものが感じやすいかなって思ってます。

              コード①:F→G→E7→Am
              コード②:F→G→E7→F♯m7(-5)
              というコード的な進行をベース単音のみとし、
              ベース①:F→G→E→A
              ベース②:F→G→E→F♯
              とすると、F♯到達時に「ちょっと違うところだけど、到達はしたよ」的な小さな達成感があるというか。
              ※極端に、Eから先をGとかG♯とかBとか…に変えてみると到達感の有無が顕著かなって。

              これは最後のコードをFM7(ベースF)にしても同じエッセンスがあるように感じます(が、in C or AmキーでのF感覚も彷彿とするのでそことの闘いにおいてトニック感と呼ぶと言い過ぎかなって気もしますが…)
              ので、5度下引力を2度上の引力に置き換えたことによるニアリーなのかなって気がしました。

              ひるりゅー
              estaraqui
                estaraqui

                みなさん大枠ではほぼ同じような意見だと思います。
                これはこれで「みんな同じだよね~」で円満解決なのですが
                あえて話を拡げようかと思います。
                音楽に限らず学問(理論)というのはそれが正しいからあるのではありません。(あくまでも私の主張です)
                全くの学問のない状態では、つまりは全くの無垢の状態では感覚のみでの情報というのは千差万別です。
                例えば何もない宇宙空間に漂っていては東西南北や上下や右左という共通の概念がありません。
                だけど地球上では重力が物差しとなって共通の上下が生まれそこから様々な共通認識が生まれていきます。
                それでもあまりに千差万別ではお互いにコミュニケーションを取る事はできません。
                例えば英語をマスターしていない日本人にとって「多分」という英語はその状況に合わせ
                「Probably」・「Likely」・「Maybe 」・「 Perhaps」・[Possibly」を使い分けることはできません。
                これを使い分けるにはそれらを「どの程度の確かさ」を持った「多分」なのかを共有する必要があります。
                この「共有」を作るために学問はあるのです。
                もちろん学問による教育によって共有化は進みますが100%共有と言うわけにはいきません。
                大枠で共有していても人それぞれが持っているニュアンスまで100%シンクロすることは不可能です。
                味噌ラーメンを食べてどう感じるかは人それぞれです。
                だけど日本人としてその文化の中でもまれた日本人が味噌ラーメンを食べるという事は
                日常生活において共有認識するような情報をゲットしている事になります。
                これは学問とは言いませんが集団の中でその文化により身に付けた学習ということになります。
                味噌という文化もラーメンという文化も知らないジャングル奥地の未開の人種が味噌ラーメンを食べても
                日本人と同じ感覚で味噌ラーメンの情報を共有するなんてことはないでしょう。
                これは音楽も同じです。
                古典音楽の系譜としての音楽の文化が世界に広まり色んなジャンルの音楽に発展して来ました。
                でも根底にあるドレミファソラシドやコードと言うのは基本共有している学問(もしくは文化的に身に付けた共有認識)なのです。
                教会旋律の中から長音階と短音階だけが生き残り現在に至るようになりその音階を基にした学問(又は文化)を世界中で共有しています。
                そうすると当然「長音階は明るいよね」「短音階は暗いよね」という学問(文化)の洗脳(共有)が当たり前の感覚になります。
                この古典音楽の系譜の音楽文化を全く知らない人がいたら長音階や短音階をどう感じるかは私たちと共有することは出来ない事でしょう。
                音楽は世界共通の言語とはそういう意味の共通なのです。
                さて7種類ある教会旋律の内2つは長音階と短音階として現在に残りましたが他は捨て去られてしまいました。
                しかしジャズの世界でその忘れ去られた教会旋律を復活させました。
                これはジャズの世界ではアドリブ等でごく普通に使われるのですが長音階や短音階ほど学問的にも文化的にも世界的に共有されていないので
                ドリアンは〇〇な感じとかフリジアン××な感じという洗脳(共有)は長音階や短音階ほど普遍的ではありません。
                つまりは今私たちがⅡ-Ⅴ-Ⅰが最も安定した終止感を得るのはそれが普遍的な真理なのではなく、
                ドレミファソラシドという音楽文化の洗脳による感覚なのです。例えばリデイアンクロマチックコンセプト(LCC)やネガティブハーモニーなどの音楽概念ではまた違った解釈となるのです。
                それが真理ではなく文化による洗脳(共有)という事はそのニュアンスは前述の「多分の英語」とおなじで100%共有している訳ではありません。
                ポップス的感覚の人のⅣ-Ⅴ-ⅠとⅡ-Ⅴ-Ⅰの類似感は古典音楽的感覚の人にはⅣ-Ⅴ-ⅠとⅡ-Ⅴ-Ⅰはダメじゃないけど前者がスッキリだし
                ジャズ的感覚の人にとっては後者がスッキリなのでポップス的感覚の人よりも類似感は薄くなります。
                またLCCやネガティブハーモニー側から見てもその感覚は異なったものとなるでしょう。
                これは古典音楽やジャズは型にハメる力が強いということです。逆を言うとポップスの方が自由度が高いという事になります。
                但しこの評価はこのコード進行の終止感についての話であってジャンルそのものの評価ではありません。

                さて構成音が類似しているコード群をどのように感じるかということの学問化(共有化)ですが
                このサイトでも言われているように全て音楽を一括りする物理学で言う統一論的な理論体系(共有化)というものは確立していないし
                全ての音楽ではなく全てのポップスに焦点を絞っても統一論的な理論体系(共有化)は確立していません。
                だからこそ質問者さんのようなテーマが持ち上がってくるのですが…。

                音楽における音高や音程というのはそれ単独で持っている「色」と連なっった時に放つ「色」は別物だと思います。
                まずは音高で言うと「ファ」や「ソ」は単独でそれぞれ違う色を固有に持っています。
                しかしそれは音高そのものが持っている「色」とは別にメロになった時のその音の放つ「色」は固定ではありません。
                それぞれの前後に連なった音高(色)によって見える「色(景色)」が変わってくるのです。
                例えばドレミファと弾いた時に感じるファはどんな「色(景色)」なのか?
                このドレミファをハ長調と感じていればソラシドに続く途中と感じるでしょう。
                しかしヘ長調と感じていればドレミファのファはトニックに解決する終止感となるのです。
                ドシラソでも同じです。ハ長調と見るのかト長調と見るかでソの「色(景色)」は変わるのです。
                これはコードでも同じです。単独で持っている固有の「色」というモノと前後の関係から見えてくる変化する景色は別物です。
                例えばDmとFは構成音が似ているからDm≒Fではありません。
                この場合はあくまでもサブドミナントとして使うのであれば取り替えてもその機能が損なわずに使えるという事です。
                ヘ長調でトニックのとして使う場合はトニックという機能が損なわれないという意味での「≒」です。
                なので〇m7(♭5)は単独のコードで見るのではなく前後の連なりを見て
                短音階に対するⅡm7(♭5)(例えばBm7(♭5)→E7(♭9)→Am7のイ短調でのサブドミナント)なのか
                長音階に対するⅣ#m7(♭5)(例えばBm7(♭5)→B♭maj7→Am7のヘ長調でのトニック)なのかで見える景色が違うのです。
                そして現代の私たちの音楽では〇m7(♭5)をドミナントで使う事は稀であるということです。
                これは間違いという事では無くて今私たちが持っている学問(文化)では共有のものとして使われていないということです。
                別にドミナントとして使って曲を作っても構いません。

                但し共有されていないモノは大抵は違和感があると批判されます。
                これは食文化も似ていますね。
                私がブラジルに住んでいた頃の食事は日本人の感覚とは共有できない部分がありますが間違いではありません。
                え!?これを食べるの?というモノが共有されていなければ評価の相違が起きます。
                ちなみにジャズではドミナント7は半音上のディミニッシュに置き換え出来るというのがあります。
                例えばG7(♭9)≒G#dim7です。G#dim7は構成音からG#dim7≒Bdim7≒Ddim7≒Fdim7です。
                そうするとそれぞれの半音下のドミナント7に置き換えが出来るので
                G7(♭9)≒B♭7(♭9)≒D♭7(♭9)≒E7(♭9)が成り立つことになります。
                ポップスでもG7とD♭7は裏コードの関係として使う事はあると思いますが
                G7の代わりにB♭7やE7を頻繁に使われていると言うことはありません。
                つまりはDm7→G7(♭9)→Cmaj7をその類似性からDm7→D♭7(♭9)→Cmaj7とすることはあっても
                Dm7→B♭7(♭9)→Cmaj7やDm7→E7(♭9)→Cmaj7とは普通はしません。
                これはそのコード構成音の類似性だけをもって代理コードとなり得ると言う訳ではないということです。
                どのドミナント7にもCmaj7に解決するトライトーンを含んでいますが自由に代理コードとして使える訳ではありません。
                これはその構成音の和音という「色」とは別に前後の関係からその和音の放たれる「色(景色)」が違うからです。
                単独のコードとしては構成音が類似していてトライトーンも含み機能も同じとなるが前後の関係性から「景色」が変わるのです。
                この「色(景色)」をどう感じるかは学問(文化)次第なのです。
                例えばトライトーンが忌み嫌われ避けられていた時代(学問又は文化)があったように今は避けられている
                Dm7→B♭7(♭9)→Cmaj7やDm7→E7(♭9)→Cmaj7なども将来は常套句になるかも知れません。
                ちなみにジャズにおいては同じ構成音のコードでもルートモーションによる景色を重要視するので
                Dm7→G7(♭9)→Cmaj7やDm7→D♭7(♭9)→Cmaj7は強進行として好まれますが
                Dm7→B♭7(♭9)→Cmaj7やDm7→E7(♭9)→Cmaj7は普通はしません。
                但しBm7(♭5)→E7(♭9)→Cmaj7はイ短調の偽終止として使用されることはあります。
                Dm7→E7(♭9)とBm7(♭5)→E7(♭9)とでは同じE7(♭9)でも「色(景色)」が違うのです。
                そしてその景色をどう感じるかはその人がどういう感性を育ててきたかに大きく影響を受けます。
                アカデミックに勉強して影響を受けるのかまたは普段聴いている音楽性で影響を受けるのかなどは人それぞれです。
                Ⅶm7(♭5)→Ⅰmaj7の進行も感じ方は人それぞれで今は文化的に受け入れられていませんが将来は分かりません。
                ちなみに〇m7(♭5)はハーフディミニッシュと言われディミニッシュコードと一音しか違わず類似性はとても高いのですが
                現在の学問(文化)ではそれらが代理コードとして使われる事は稀です。
                古典音楽やジャズは進歩が止まった感がありますがポップスはまだまだ進化の途中だと思います。
                今後も王道は王道であるけどもそれとは別に新しい風を吹き込むコード進行(景色)がポップスの世界では生まれるのだと思います。

                上手にまとめられていない長文でお見苦しかと思いますがご容赦下さい。

              6件の投稿を表示中 - 1 - 6件目 (全6件中)

              このトピックに返信するにはログインが必要です。