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機能論に関わる扱いの変更について

By 2020.06.14告知

先日、フーゴー・リーマンの機能和声に関する詳細な記事を公開しました。

機能和声の変遷 ❶ リーマンの“原作”

この記事の執筆以前も、流派ごとの定義の違いや思想の違いといった「現在の状況」的部分については「IIImの和音について知る」という記事で公開していました。しかし「構造と意味」の論議、ローマ数字記法と対置される存在としてのリーマン記号といった「それが生まれたときの思想」的部分までは、ハッキリ言って理解していなかったと言わざるをえません。

いざその思想哲学を理解した今となっては、次のような思いが芽生えます。第一に、リーマンの本来の機能論が多種多様に改変され、その結果「機能論は曖昧な理論だ」というような風評が広がっていく流れを助長したくない。
そして第二に、TDSの完全な3文字だけに縮小された「改変版」への依存度を、極限まで最小化していきたい。機能論が音楽理論の根幹であるかのような認識をできる限り無いようにしていきたい。

そこで、本編の様々な箇所に含まれている、コード機能に関わる記述に変更を加えました。この記事では、その変更点について説明します。

1. 接続系理論の修正

「接続系理論」は、「3つのコントロール・ファクター」のうちひとつとして、「TDS機能の変化」を含めていましたが、それを除外し、コントロール・ファクターを「ルート変化」と「クオリティ変化」の2つだけに変更しました

ルートの変化
コードの長短

これは一見すると大きすぎる変更に思えますが、実際はそうではありません。

BEFORE
3つのコントロール・ファクターからコードを分析しましょう。それにより、機能論だけでは区別のつかない細かいコード進行の曲想差がよく分かります。
AFTER
接続系理論は、ルートとクオリティの変化に注目します。これを機能論と併用しましょう。それにより、機能論だけでは区別のつかない細かいコード進行の曲想差がよく分かります。

こんな風に、機能論が「中」にいるか「外」にいるかという違いしかありません。言わばBEFOREは機能論を「取り込んで子会社にする」ようなもの、対してAFTERは「別会社のまま提携する」ようなものです。内外の関係認識が変わるだけで、ユーザーの実際の動作は何も変化しません

BEFORE - AFTER

むしろこのように分離をすることで、接続系理論と機能論とが補完関係にあるというポジショニングが分かりやすくなりました。

  • IImVIVVの類似性を明らかにするのが機能和声論
  • IImVIVVの差異を明らかにするのが接続系理論
  • IIIImIVVImの差異を明らかにするのが機能和声論
  • IIIImIVVImの類似性を明らかにするのが接続系理論

二者を分離したことで、たとえユーザーが「島岡和声」の機能論を採ろうと、バークリーの機能論を採ろうと、中心軸システムを採ろうと、「それと接続系理論を噛み合わせるのだ」という関係構造が分かりやすくなったかと思います。たとえどれと組み合わせようとも、接続系統分類はルートの変化が基準ですから、問題をきたしません。

III章の接続系理論への影響

III章では、ノンダイアトニックコードの接続系理論について説明しています。ここも改訂前では「機能が曖昧になるので、これに関しては残り2つのコントロール・ファクターで考えるしかない」というネガティヴな説明になっていましたが、機能論を分離したことでむしろ、「機能がよく分からないコード進行についても一定の分析を行える尺度として接続系理論が使える」というポジティヴな風体になりました。

例えばII7IVという機能論的には範疇外の進行に対しても「E型接続の一種であり、ソフトな浮上感がある」と言える点において、やはり”機能論と補完関係にある理論”としてのポジショニングがハッキリし、接続性理論の存在意義というものがより分かりやすくなったと思います。

コントロール・ファクターのうち1つを外部に切り離すということで、大きな変更点ではありますが、ソフトウェアでいうところのアップグレードの一種と捉えて頂ければ幸いです。

2族に対する説明

これまでは、A²やC²に対する説明を「DSの逆行」と述べていましたが、ここも機能論への依存度を下げるため、機能という概念を使わずに古典派理論本来の考えをそのまま伝達することにしました。

古典派時代の人々は、VやIIImが持つ緊張感を緩和させる模範的な進行は、第一に「4度上行」、第二に「2度上行」。このどちらかだと考えていました。そして後になってからV→IIImの接続も、主にIIImをT機能とみなすジャズ系流派から解決の一種として認められていきました。それ以外の緩和法は模範的でない、避けるべきとされ、その流れを汲む一般音楽理論でも、やはり「基本でない」「イレギュラー」といった消極的な言い方で紹介されています。

これは禁則の”根拠”の説明には厳密にはなっていないわけですが、そもそも古典派理論の禁則に根拠などありません。彼らは実際の作品から帰納的に法則を組み立てただけです。そのことについても、総括の回で軽く触れることにしました。

説明の手数と明快さ

また、DSを用いた説明では「IIImIVはなぜ許可されるのか?」を別途で補足する必要がありました。そこで「後続がIVの場合はTとしているから良い」などとすると、機能論がいかにも「後付けで都合の良い解釈を選んでいる」かのような誤解を与えるという問題もまたありました。

結果的な「説明の手数と明快さ」で言えば、TDS論を土台にあーだこーだと説明するよりも、「VとIIImは、4度上行か2度上行。ジャズに言わせりゃV-IIImもOK。科学的根拠はない(仮説はあるけど)。慣習をまとめて理論を作っただけ。」が最速であり、かつ事実を最も直接的に反映しているだろうというのが、現時点での結論です。

2. 機能論の説明の修正

機能論をどのように説明するかはたいへんな問題です。原理主義に走ってリーマンの機能論をそのまま紹介することはあまりにも非現実的であって、機能というものを「カデンツ上のどこに配置されるかという役割」「緊張と緩和における位置付け」といった現行で通念として存在しているフォームで説明するのは、止むをえないことだと割り切ります。

原作の軽い紹介

しかし、現行の機能論が簡素化されたものであることを知っておいてもらうために、初めにサラッとだけリーマンの原作を紹介するようにしました

激しい記号ふり

リーマン記号の本来の姿を見せ、「かつてはTDSの下にサブカテゴリがあった」という事実を伝えるだけであれば、割かれる分量と得られる見識が釣り合うだろうという判断です。

そして「通念上の機能論」をベースにしつつも、細かい表現の部分で「リーマンの機能論」に寄せられる部分があれば最大限に寄せるという形で対処をしました。

質感ではなく役割

まず、機能という概念が「コードがその内に”備える”音響的な”安定感”を表すものである」という認識は、リーマンの機能論哲学とは異なっているばかりか、文脈依存を分類前提とする多くのクラシック系機能論とも食い違います。そしてジャズ系理論においても、V7sus4を後続次第でSともDとも解釈する文脈依存型の見解をとるものはあります。

そこで、I章のはじめの段階から、機能が「絶対的に備わる質感」ではなく「相対的に与えられる役割」なのだということを、すべての文面の端々から表すように変更しました。

例えば「I,VImはトニック機能を持つ」というような言い方から、「緊張と緩和における”緩和”の役目をトニック機能と呼び、この役割を果たしうる典型的なコードがIとVImです」といった風に修正されています。

流派の食い違いに関する説明

「クラシック流派が概ね文脈依存方式を採用し、対するジャズ派が完全にトニックへと分類した。二流派ではそもそも分類の基準が違う」という歴史の流れを、簡素にですが明示することにしました。そして注釈にて、「日本のポピュラー理論はジャズ系流派から来ているので、IIImはトニックと紹介するものが多いはず」と付け加えています。

これは自由派以外のコンテンツに触れるさい、その流派傾向を知るガイドの一つになるだろうという配慮からです。それから、「分類結果が違うというより分類基準が違うのだ」という点を強調するようにしました。これもまた、基準のすれ違いに気づかず他人の考えを非難するような不毛な行いがこの世からなくなることを願ってです。

ノンダイアトニックコードの機能

二次ドミナントやパラレルマイナーコードたちの機能に関する記述も、いったん削除しました。例えば改修前は島岡和声が♭VITとしていることにサラッと触れていましたが、そういうのもわざわざすることではないだろうというのが現在の見解です。

代わりに、ノンダイアトニックコードの分類に関与しないことを機能論の最初の記事で明言する形に変更しました。

自由派ではこの機能論とはできるだけ距離を置きます。六つの基調和音の「リーダー・下の仲間・上の仲間」という立場を表すグループ名称としては便利だし、こうやって基本的なコード進行を「緊張・緩和の型」で捉えることにも実利があるので適度には利用しますが、それ以外のコードの機能分類には原則的に関与しません。
他流派においても、発展的な和音をどこまでこのTDS論で語るかというのはまちまちで、基調和音以外については無理してTDSのどれかに分類しようとしない立場を採るものもあります。自由派も、そのスタンスを採用するということです。

改修前も、「目的と手段を履き違えてはいけない、実利のない分類に拘ることもまた、理論に縛られるということのひとつ」という説明はあったわけですが、もうその注意喚起ごと削除してしまいました。もしこれにより今後、「和音のTDS分類が明示されておらず、コンテンツとして不十分だ」という類の非難が多く生じた場合には、その時にはまた注意喚起の文面を各記事に再掲しようと思います。

補足記事を考え中

けっきょく現行だとI章で機能論を紹介してから、その真の概要を知るのがVIII章ということで、そこまでの空白期間、機能和声についてよく分からないままでいる期間が長すぎるのは問題かもしれません。「分類なんてしょせん分類なんだから人為的に決まっている」というので納得できる人とそうでない人がいて、機能論への不信が音楽理論全体への不信に繋がるのならばそれは不本意なことです。

そこで今、I章の知識だけでもなんとか、機能和声の「やろうとしていること」を解説し、理論と文脈依存の関係性について理解してもらうことはできないかなと考えています。音源の比較があるだけでも違うでしょうし、「シンタックス」と「セマンティクス」の対比関係をうまいこと説明できないかと考え中です。