和声 : 標準配置

コード編 Ⅶ章:古典の世界

§1 和声学

さて、Ⅶ章前半は比較的キャッチーで、これまでのコード理論の延長という感じでした。でも、本格古典派が牙をむくのはここからなのです。

配置と声部連結

コード編の極めて早期、Ⅰ章の段階で、「配置(Voicing)」と「声部連結(Voice Leading)」という概念についてはもう説明しました。
「配置」は音の重ね方、「声部連結」は和音同士の繋げ方のことです。コレについてはⅥ章のジャズ理論でも簡単に扱っています。

比較後者の方が圧倒的にスムーズ

Ⅰ章の時はまだビギナーでしたから、「滑らかに繋ぐのがひとつの指標」とだけ言って終わりでした。しかしこの「配置」と「声部連結」こそ、古典派理論がかなりこだわってきた部分であり、クラシック音楽の美しさの根幹をなす重大な要素であるのです。

和音の配置や繋げ方に関する理論のことを音楽理論の世界では和声Harmonyと呼びます。英語でも、「Classical Harmony」などと言えば、それは古典派の和声理論を指し、「Harmony」と「Chord」は別々の語として区別される。ここからⅦ章のラストまで続くのは、この「和声」に関する理論となります。

実際クラシックの外の世界でも、プロのポップス作曲家の作品ではこの和声の法則が意識されて編曲されていることがよくありますし、合唱曲のピアノ伴奏なんかは和声技術を知っていて当然という世界です。

合唱曲「大地讃頌」の伴奏なんかはその典型と言えます。あまり伴奏の表現としては凝っていない部類だと思うのですが、それゆえに一つ一つの音の流れの美しさが際立っています。1音1音にこだわって音を構成していくというのが、これ以降の主題となります。

参考書籍について

この記事の中心的な参考文献になっているのは、引き続き「島岡和声」の3巻組と、「新しい和声」という1巻完結の書籍です。



当然これも、本来はたかだか数回の記事でまとめられるようなものではありません。しかし、基礎的な概念を理解するだけでも編曲の美しさがかなり変わります。これほど強力な理論が、ただ書籍が分厚く難しいという理由で世間から知られていないのは、本当にもったいない。

ですからここでは、詳細な例外などはいくらか省き、核となる概念と、基礎的な実践部分だけを紹介します。「限定的な禁則」や、「禁則の中で限定的に許可される部分」といった細部までは、ハッキリ言って扱いません。あくまで「和声学体験ツアー」のようなものと思ってください。そしてその基礎を自分の曲で実践する中で、「この理論の効き目はスゴイぞ!」と思ってくれた方が、書籍を購入してより本格的に学んでもらえるのが理想形と考えています。

禁則よりも哲学を

この「和声」の知識は、決してクラシック世界でしか通用しないものではありません。ポピュラー音楽におけるほとんどあらゆる種類の「伴奏」について、この和声を知ることがクオリティの向上に繋がりますし、少ない音数で魅せなければいけないダンスミュージックにおいても、和声の知識はすごく強い武器になります。和声を知ることは、サウンドの仕組みを知ること。それは、音楽そのものを知ることに他なりません。

ただこの和声の分野は、世間から堅苦しいものとして非常に忌み嫌われている分野でもあります。それというのは、音楽理論の中でもすごく「禁則」がたくさんあって、厳しいエリアだからですね。

イライラ

ただ、もう最初から「歴史と流派」を知り、たくさんの「禁則破り」を学んできた私たち自由派は、もちろん古典派の「禁則」に悩まされる必要などありません。破ったら破ったなりの新しいサウンドが得られるってことを知ってますから。
だから大切なのは、禁則を丸暗記して遵守することではありません。なぜ禁則とされたのか? 守ることでどんなサウンドを追求したのか? そういった「哲学・思想」こそに価値があります。それを理解できれば、逆に破ることでどんなサウンドを得られるのかも分かりますしね。

我々現代人の目指す音楽と、18世紀の人間が目指した音楽は違う。それを忘れずに、自分の音響哲学と古典派の音響哲学を別のものとして切り離しましょう。そして一歩離れた客観的な目線で「和声」の世界を眺めて、使えそうなところだけを盗んで自分のモノにしましょう!

コードの表記法について

さてここからは、本当に古典派の世界にどっぷり入っていくぞという決意を込めて、マイナー・メジャーなどのコードクオリティを省略した、古典派の一般的表記を採用します。

古典派の表記

この「スーパー文脈重視」の表記が古典派の方法論でした。ここからは、基本的にCメジャーキーを使っていくことになるので、例えば「VI」と書いてあったらそれは「VIm」のこと。「II」と書いてあったらそれは「IIm」のことです。注意してくださいね。

古典派のコードネームに対する意識

念のため述べておくと、古典派理論にとっては、コードクオリティを「省略」しているという認識はありません。「楽譜上で臨時記号がつかない普通の和音に対して、mとかøとかイチイチ記号を足さなきゃいけない方が非合理的」というような感覚です。

というのも、クラシック界における理論の重要な任務の一つとして、「楽曲から作曲家の意図を正しく解釈する」ことがあります。ある音が和音の一部なのか、あるいは経過的な装飾音なのか。変位和音があったなら、それはどの調からやってきたものなのか・・・。それを伝えるために和音記号があります。つまり古典派にとって和音記号とは、構成音を述べるものではなくて意味を述べるものなのです。

例えばジャズなら、楽譜にはコードネームだけが書かれていて、それを元に演奏するなんてことがある。だから和音記号は構成音を正確に伝えるものでなければならない。クラシックは正反対です。構成音なんて、楽譜を見れば一目瞭然なのだから、そこに重点をおく必要は全くないわけですね。やはり前提の違い、目的の違いが、理論に違いを与えているのです。面白いですよね。