目次
1. 続きは書籍で
さて、お疲れ様でした。和声の話はここで終わりです。ここに来るまでになかなかの知識量がありましたが、これでもまだ基礎中の基礎しか紹介できていません。
実際の和声本に載っている発展的内容としては、既知であるテンションコードの話なんかも含まれていますが、それを“クラシック音楽の様式ではどのように取り入れられているか”まで解るという点に、価値を感じるかどうかですね。先へ進むと、時間対効果の低い細かな知識も増えてくるので、正直言って万人にはオススメ出来ません。
これまでに解説した「クラシックの基本哲学」のようなものが分かればそれで十分という人は、これ以上深追いする必要はないでしょう。このⅦ章の内容をきちんと実践するだけでも、なかなか本格的なクラシック調の曲が作れるはずです。
オンラインで練習をしよう
和声の難しいところは、チェックしてくれる人がいないと、自分の和声連結があってるか自信を持てないところにあります。だからこそ、誰かしら先生に教わる必要がありました。しかし、21世紀の進歩は目覚ましいです。なんと、WEB上で和声の練習ができるサイトがあるのです!
バスが決まった状態で上三声を編集する「バス課題」と、逆にソプラノが決まっている「ソプラノ課題」を楽しめます。矢印ボタンで各声部を動かし、綺麗なラインを作っていくのです。素晴らしいですね。音の再生も出来ます。よくない点がある場合にはきちんと指摘してくれますので、コレで粘り強く頑張れば、かなり和声感覚に強くなれるはずです。100点が取れると、嬉しいですよ!
まずシンプルな形で100点が取れるようになったら、今度はメロディラインをなるべく美しくするよう工夫したり、ちょっと定番の配置から外した、自分なりの配置を試みてみると面白いです。ほんとに、いい時代になりました・・・。
2. 禁則を活かす
「禁則」の話がずいぶんたくさんありましたが、何より忘れて欲しくないのは何が禁則だったかではなくなぜ禁則だったかです。音の“彩り”や“硬さ”、反行や並行によって生じるハーモニーの形など、そういった根本の思想があってこその規則です。それをきちんと理解していれば、どんな時に規則を守るべきで、どんな時に破るかも自ずと判ります。
ポピュラー音楽にて
それこそたとえクラシック畑の人のクラシック系楽曲であっても、表現したいこと次第ではポピュラー音楽の中で「連続5度」を活用する事例だってあります。
例えばこちら。1:10からの2小節間、パートが変わって管楽器の二声だけになるところで、びっくりするくらい単純に完全5度を繰り返しているのがハッキリと聴けます。1:27〜のところもそうですね。
このフレーズです。久石譲さんは音大出身だし、なんたって「和声」の著者である島岡譲さんに師事していたそうですから、和声のルールを知らないはずがない。でも、この連続5度が持つモノトーンな表情が、このパートにはぴったりだと感じたから使ったのでしょう。和声は、声部同士を独立して聴かせる技術。それを逆に応用し、2つの楽器を一体化させてひとつのサウンドとしているのです。
この曲は他にも、「属九和音の配置規則」を破ってあえて2度で音をぶつけて濁らせたり、ピッチカートを4度でハモらせて和を表現したりなど、“度数のマジック”がそこかしこに散りばめられています。この連続5度だって、明らかに意図的な選択なのです。
Summerのこのパートって、なんだかホッと一息つくような、音楽的休息の場面ですよね。ここで一回落ち着くから、次また入ってくるメインメロディが輝く。映画とかアニメで適度な“間”を作るために「セミが木に止まってる風景」とか「暮れていく空の映像」とかを挿入する手法があると思うのですが、アレに似たものを感じますね。
日本の心はワビサビです。最初から最後までずっと優雅で多彩というのは、それはそれで節操がないと思いませんか? 久石さんは、禁則が禁則である理由、古典派が求めたサウンド像、そういう理論の芯をガッシリと理解しているのでしょう。禁則が何のためにあるのかを深く理解しているから、もし破れば何を得られるかも分かる。だから、破る時は思いっきり破る。それによって、連続5度がもたらすサウンドを、絶妙なスパイスとして活かすことに成功しています。
近代クラシックにて
「四度堆積和音」の時に紹介したドビュッシーの「沈める寺」も、バリバリ5度・8度の平行移動が大量に行われています。
これだって言うまでもなく、「理論的に正しい音楽」です。だって古典派の典型的な西洋音楽観から脱したくて東洋のエッセンスを取り入れているのだから、ここは禁則を犯しまくってこそ音楽理論の正しい活用法だと言えます。
ほか、ラヴェルの「ボレロ」なんかも、和声論を無視した異常な平行移動でメロディを重ねるパートがあることで有名です。
これは、オルガンのような独特な楽器のサウンドを複数楽器で再現する試みと言われています。
この和声学は、あくまでも「各パートが独立性とバランスを保ったまま、響きの豊かで澄んだアンサンブルを作るための方法論」です。それを理解して、使うべき時に正しい方法で使い、破るべき時には効果的に破る。それでこそ音楽理論を学んだ意味があるというものです。
3. 本当に大事なこと
最後に改めて確認しますと、この「和声」は何も、格調高いクラシックサウンドを作るためだけにある知識ではありません。ピアノの伴奏なんかはもちろんのこと、ハモリのラインを作るときも大活躍だし、テクノやEDMでも音数が少ない方が音圧が稼げるわけですから、最小限のハーモニーで効果的な音響を得るにあたって、和声の知識はメチャクチャ有益です。
そしてそのいちばんの本質が何かと問われれば、それは「コード」という概念からの解放です。
こちらは、ソプラノとバスが反行しながらドンドン広がっていく、いかにもクラシック調のフレーズです。和声の知識があれば、こういうフレーズを作ることは難しくありません。タテ(各声部の度数関係)とヨコ(声部連結)の状態をチェックしながら組み立てていけばいいだけですからね。
ところが、これにコードネームをつけようとすると、とっても大変です。特に4・5小節目なんかは、そのニュアンスをコードネームに還元するのは困難。強いて行うならばこうなるでしょう。
かなりグチャグチャ。かろうじて分析はできましたが、しかしもしこのようなコード理論の思考系で考えていたら、このようなアンサンブルを実際に発想して構築することは困難でしょう。異なる理論系を持つということは、異なる作曲法を持つことに直結します。
和声に習熟すれば、こうやってサウンドのコントロールを研ぎ澄ませ、ギリギリのラインを攻めるアンサンブルを作ることも容易です。和声を知ることは、度数がもたらすサウンドを深く知ることであり、それは音楽の本質を知ることに他ならないのです。
コードの檻から心を解放する
理論を学んだ人ならば、「次のコードはどうしようかな」と考えながら曲を作ることも多いと思います。あまりに当たり前すぎて、気にもしないことです。でもそれは、見えない理論の檻に知らず知らずのうちに閉じ込められていると言えます。気づかないうちに、音楽をコードという名の“縦の包丁”でザクザクに区切って考えてしまっている。和声は、そのことに気づかせてくれます。
もちろん、コード理論が普段の実践運用性において和声に勝るのは間違いありません。しかしコード理論に思考が固定されてしまうと、このような一音一音が織りなす音のストーリー構築や、あるいはⅤ章でやったトーン・クラスターや四度堆積和音といった「コードネームで表記しにくい和音」が、知らない間に思考の隅の方へと追いやられていってしまうのです。コードという便利な道具が、かえって道のりを遠くしてしまう場合もあるということ。
和声学は、書籍にのっとって学んでいくととても厳格で、使い勝手が悪いように感じてしまう人も多いです。しかし、その核心部分をきちんと理解して運用すれば、むしろ「調」や「コード」という概念そのもの、その垣根を取り払った「完全に自由」な作曲を、いとも簡単に実行させてくれるメソッドでもあるわけです。
いま世の中に当たり前のように存在している「コードネーム」という考え方は、ジャズの発展と共に普及していったものです。それ以前の時代の音楽の作られ方を知ることで、より自由な精神で作曲に取り組むことができるはず。和声学を学ぶ本質はそこにあります。