目次
前回は「ナポリの和音」を紹介しましたが、同じように「半音の変位」によって得られる和音の定番パターンというのがまだ存在しているので、ここではそれを紹介します。
1. ふたりの傾性音
ダブルドミナントがクラシックの定番であることは、序盤で既に説明しました。それは長調でも短調でも同じです。
「ファ♯→ソ」という半音関係を得ることで、Vの和音への進みがよりスムーズになる。これはもうII章でやった話で、ダブルドミナントはポピュラー音楽でもおなじみの存在です。
一方で「短調でのダブルドミナント」はポピュラー音楽での使用頻度がそう高くないため、高級なクラシック調を演出するカギのひとつになる大切な和音でした。
普通のIIとダブルドミナントとの違い
ここで「短調でのダブルドミナント」を、本来の「短調のII」と並べて比較してみると、下のようになります。
比較すると、あることに気がつきます。「ファ♯」を得た代わりに、もうひとつの傾性音である「ラ♭」を失っている……。考えてみればこれは、もったいないことです。ラ♭がいかに魅力的な音を持っているか、私たちはIVmやVIの和音でイヤというほど理解していますからね。
何とかして、魅力的な傾性音であるファ♯とラ♭を両取りできないか? 2つを合体して、ハイブリッドな和音が作れないだろうか? この野望は、実際に様々な形で行われてきたのです。
2. 世界三大・増六の和音
まずスタートラインとして、ファ♯とラ♭がすぐ側にいてはバチバチの不協和が発生するわけなので、ふたりを離して配置することが必要です。
こうやって、ふたりそれぞれに解決先となるソを用意してあげるという形になります。
この時のラ♭とファ♯の音程関係は、「長6度」よりもさらに半音広がっているので、「増6度」といいます。これは「短7度」と異名同音ですが、しかし彼らの生まれを考えれば、例えばファ♯をソ♭と読み替えることは適切とは言えません。あくまでも「増6度」なのです。
この増6度関係に配置された2音を活用した諸和音を総称し、増六の和音Augmented Sixth Chordといいます。
イタリアの六
まず最低限の音数でフォーメーションを組むとすると、下の形が思い浮かびます。
加えるのは、レにもシにも順行できるドの音です。あまり味のない音を足すに留めて、純粋に2つの傾性音が半音で解決するさまを味わっていただこうという、そういうレシピです。まるでマルゲリータピザのように最低限の要素だけで作られたこの和音は、イタリアの六Italian Sixthと呼ばれ、上譜のようにIt+6やIt6などと表記されます。
四声編成ではいずれかの音を重複させる必要がありますが、傾性音のどちらかに加担するとバランスが崩れてしまうので、重複させるのはドの音ということになります。
この和音の根音をレとみなす(=根音省略形体)か、単にラ♭とみなすか、はたまたファ♯とするのは、また理論書によって意見の分かれるところですが、レとみなすのが優勢と思われます。
後続はVではなく、I2→Vへ進むことももちろん可能です。その場合は、重複したドのうち片方をミへ接続すればよい。
フランスの六
フォーメーションは他にも考えられます。何もドを重複させるくらいだったら、除外してしまった元々のルートであるレを足した方がサウンドが充実するだろうという考えも当然あります。
この充実した味わいの和音は、フランスの六French Sixthと呼ばれます。こちらは味付けの豊かさが魅力ですが、作曲においてはこのレの味が邪魔だという時ももちろんあるわけなので、ケースバイケースで良いものを使い分けることになります。
ドイツの六
せっかくなら根音省略体の醍醐味である「9th積み」をやった方が面白いのではというアイデアもあります。レではなく、短9度にあたるミ♭を足すのです。
ディミニッシュセブンスを思わせるようなこのコッテリしたサウンドの和音は、ドイツの六German Sixthと呼ばれます。ドイツの六はVへ直行すると「連続5度」の禁則発生が不可避です。これを例外として承認する理論書もありますし、実際にモーツァルトやベートーベンもけっこうな頻度でこの禁則を破っていたといいます1が、次のようにI2を経由して回避する方が、ハーモニーとしては美しくなります。
ビッグ・スリー
イタリアの六・フランスの六・ドイツの六は、「増六の和音」の中でも特別な名前が定着した代表メンバーとなっています。これを「ビッグ・スリー」などと呼ぶ学者もいる2。
It・Fr・Grの順に並べると音程がド・レ・ミと並んで分かりやすいですね。またどれがどれだったか忘れてしまったときにも、それを英語で”I ForGet.“と口にすればそこに三国のイニシャルが現れるという、極めてハイセンスな語呂合わせが、100年前の書籍にてドヤ顔で提案されています3。
ビッグ・スリーを特徴づけるそれぞれの音をパスポート・ピッチPassport Pitchと呼んだ学者もいます4。 ようはコードに国名をつけること自体がある種のおふざけであるので、後世の学者たちもそれに乗っかって“ユーモア発表会”をしているようなところがありますね。
Aマイナーキーの場合
CマイナーキーではなくAマイナーキーで見ると、3つの和音は以下のようになります。
こうして見るとそれぞれの違いがよく分かります。イタリアンはとにかくシンプル。フレンチはベースとの増4度関係がさらなる濁りを生んでいて、対するジャーマンはベースとの完全5度関係が和音を硬くしているというキャラクターの差があるわけです。
長調における増六和音
「ナポリの和音」と同様に、増六の諸和音もまた長調で用いることが可能です。たとえば「フランスの六」なら…
こうです。「半音上行・半音下行、2つの傾性音を同時ゲット」というコンセプトなので、当然ラ♭が付くことになります。短調のときと違って2つの臨時記号を伴うため、異物感は強め。明るいレの音を伴う「フランスの六」が、比較的使いやすいかなという印象です。
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なぜ国の名前?
ちなみに、三国の名を冠してはいるものの、それぞれの国で各和音がよく使われているというハッキリした根拠があるわけではありません。名前の誕生と普及には、謎が残されています。
一応古いところで1810年の書籍には、「(フランス人である)ラモーの理論書にしか載っていなかったからフランスの六」「(ドイツ人である)グラウンなどが効果的に用いていたからドイツの六」と「呼ばれるのだろう(“may be called”)」という記述があります5。
あるいは1835年の書籍には「サウンドがソフトだからイタリアの六」「フランスの六、ドイツの六はその国の楽派でよく使われているから」という、当時どうやらあったらしい「イタリア=ソフト」のイメージから名前が生まれたという記述もみられます6。
ただ呼称が生まれてから理論書に載るまでのタイムラグというのを考えると、やはり起源を辿るのは極めて困難と言えます。
ルートが決まってないものでして…
「音と関係ない名前をつけるのは分かりにくい」という批判はずっと昔からありますが、一方でどこをルートとするかの見解が理論家たちの間で割れているため、ひとまずの共通語彙として中立的な名前が必要だったという理由は無碍にできないものがあります。これは、前回やった「ナポリの六」にも共通して言えることです。
それに、普通に呼ぼうとすると名前が長くなることから、けっきょくはこの名前に落ち着いているという感じです。
愛称 | 正式な説明 |
---|---|
イタリアの六 | (短調の)ダブルドミナントの・セブンスの・5度下方変位・第二転回形・根音省略 |
フランスの六 | (短調の)ダブルドミナントの・セブンスの・5度下方変位・第二転回形 |
ドイツの六 | (短調の)ダブルドミナントの・ナインスの・5度下方変位・第二転回形・根音省略 |
これに楽曲のアナライズ最中に何度も出くわすのですから、別の名前をつけたくなる気持ちも分かりますよね。独特の愛着が湧くような名前をつけることは、実践上まんざら悪いことでもありません。
3. ビッグ・スリーの実例
増六和音の典型的な例をいくつか聴いてみましょう。
ベートーベン – 交響曲第5番 “運命” Op.67 (第1楽章)
「イタリアの六」を実に分かりやすく使っている例が、ベートーベンの「運命」です。
以下の部分で象徴的に用いられています。
IとVの間に挟まった強烈なサウンドが、It+6です。ラ♭とファ♯という“傾性音の両取り”が、深みのあるサウンドを生み出しています。
もしもの話
プレーンな和音との比較をしてみましょう。
- ファ♯不在の場合
- ラ♭不在の場合
どちらも物足りないですね。ファ♯不在(=II¹の和音、臨時記号なし)は全く“毒気”が足りないし、かといってラ♭不在(=♯IVがルートのパッシング・ディミニッシュ)の方は幾分マシですが、あからさまに「ファ♯使ってますよォォ」という感じがちょっと面白くない。
こうして聴き比べると、増六の和音が果たす役割の大きさが分かります。
ショパン – プレリュード Op.28 (第20番)
「ナポリの六」でも紹介したショパンのこの曲には、「フランスの六」が効果的に使われています。これはナポリが出てくる少し前の場面ですね。4・5番目の和音に記号をどう振るか悩ましいところですが、属調への一時転調ということにしました。「フランスの六」は、一番強烈な6つ目の和音です。Fr+6自体が元々ダブルドミナント由来、つまり属調からの借用ですから、ある種のピボットコードとして機能しているとも言えます。
フランスの“味”であるレの音は、ベース音とトライトーンを構成します。今回のようにそれをトップノートに持ってくると、内声は「ド-ファ♯」でトライトーン、外声は「ラ♭-レ」でトライトーンという、ダブルパンチが鮮明に浮かびます。
もしもの話
もしレをドに変えて「イタリアの六」にすると・・・
こうです。やっぱりちょっと物足りないし、ちょっと渋いというか古いというか、古典派を思わせるテイストになってしまいました。一音一音のチョイスがいかに精査されているか分かりますね。
ベートーベン – ピアノソナタ 第13番 Op.27-1 (第4楽章)
冒頭の崩れた拍子が印象的ですが、その後にやってくるコテコテの“ベートーベンっぽいケーデンス”に、「ドイツの六」が使われています。
B♭マイナーキーなので読むのがちょっと大変ですが仕方ない。赤くした音符が、ドイツの六を象徴する音です。どの音が何なのかよく分からなくなったら、「属音へ半音で進むふたつの傾性音」という元々のストーリーを思い出すと、どの音がどの役目だったか思い出せるはずです。
ここでは、ちゃんと連続5度にならないようにI2を経由しているところもポイント。「モーツァルトやベートーベンだって禁則を破っている」みたいな話は、半分は正しいですが、彼らも守るべきと思ったところはきちんと守っているのです。