キャンセルと♯9th、また親スケールを教えないこと

先日「傾性と変位のキャンセル」と「パラレルマイナーと変位シェル」という2つの記事を掲載しました。
ただこれらの記事に書かれている内容、音楽理論の使い方には、一般的なジャズ理論とは解釈の異なる部分があります。そのため、いずれその流派の人たちから「その考え方はおかしい」と指摘される可能性もあると思っています。

そこで、指摘される前にあらかじめ、自由派と一般理論の見解の違いとその理由を明確にしておきたいと思います。

#1 キャンセルと♯9th

まず「変位のキャンセル」について。これは「コードが変位したにも関わらず、メロディが変位前の音をとることでサウンドの変化を抑制する」行為として説明しています。

キャンセル無し

これに対してありそうな批判が、こちらです。

音楽理論警察の人
III7でのソは短3度をぶつけて打ち消してる? 何言ってんの、これは短3度じゃなく9thのテンションだから。M3とm3がいっぺんに鳴るわけないでしょ。「オルタード」って聞いたことないのかな?きみ、ぜんぜん理論知らないんだね。

ジャズ理論では、ドミナントセブンスコードでm3を乗せる行為は、異名同音の#9thに読み替えて、テンションを乗せていると解釈するのが一般的ですよね。
むろん私もこれを知らないわけではなく、知ったうえで「キャンセル」という言葉を新たに唱えています。というのも、ジャズを論じるうえでは#9thで何ら問題ないのですが、ポピュラー音楽の歌メロまで視野を広げると、#9thという解釈では不自然に感じられる部分というのがいくつか出てくるのです。

❶楽譜上の旋律の違和感

そのひとつめが、「楽譜上の旋律の違和感」です。III7上の#9thは、ファのダブルシャープ。したがって、先ほどの音源は理論に忠実に採譜するなら以下のようになります。

キャンセルと#9th

しかし果たして作曲者は本当に、「一度目はミ-ファ-ソで二度目はミ-ファ-ファ」と捉えているのでしょうか
私にはそれが、ずいぶんこじつけの解釈に思えます。
普通に考えれば、「2回同じフレーズを繰り返している」という認識のはずですよね。それを「ミ-ファ-ファ」としてしまう解釈は、本当に正しいのか、理論上の都合を優先しているだけではないかと思うわけです。

むろん実践においては、ダブルシャープのような難しい記号を避けシンプルに記譜することはあります。しかし、m3を#9とみなす行為が本質的に意味するところは、こういうことなのです。

❷作られるフレーズの違い

その疑問をより強くさせるのが、ポピュラー音楽で「キャンセル」が発生した際のメロのふるまいです。III7でいうと、多くの曲でソは自然シェルへ進み、ソ♯と連動することがありません。多くはファに下行し、あるいはコードチェンジまでソを保つか、何ならラへと跳びます。1

キャンセル時のふるまい

というか、変位音を「打ち消す」のがキャンセルなので、が絡んでこないタイプのメロディだけが「キャンセル」とみなせると定義してもよいと思います。最終的にソに行き着いたばあいは、“打ち消し”てないですからね。

もし通常の♯9thであれば、これはM3と“絡みやすい”インターバルであるはずです。実際に、記事内で紹介した「誰よりも高く跳べ!」では、伴奏のエレキギターは♯9をM3と絡めています。それが♯9thのあるべき姿ですよね。

ところがその一方歌メロにおいては、ガイドトーンであるM3は鳴らされず、♯9thが腕を振るう。しかも緊張を生み出す存在であるはずの♯9が、普通にどっしりと解決なしで伸ばされたり、ブルーノートに跳躍したり、M3をすっ飛ばしてP4に行ったりする。そんなとき、「コイツ、やっぱm3じゃねえの?」と思うわけです。

全ての9thがm3であると主張するわけではありません。ポピュラー音楽の歌メロで特徴的に振る舞う9thがいて、それはm3と見た方が自然ではないか、そしてM3をm3で打ち消すような動作を「キャンセル」と呼ぼうという話なのです。

分類 ジャンル傾向 登場場面 傾向
9的 ジャズ的 主に楽器演奏 M3に従属している
m3的 ロック的 主に歌メロ M3を無視している

もちろん歌メロであっても、ジャズ的な9thが現れることはあります。

「開花する」のところで、9-M3という流れが見られます。右側のピアノもトップでM3を鳴らしてコードクオリティを明示していて、これは明らかに「M3に従属している」パターンです。
「キャンセル」の場合には、歌メロも楽器のふるまい(ヴォイシング)も、こういうジャズ的な動きとはずいぶん異なります。だから、何でもかんでも「9に決まってる」では済ませられない。そう思うわけです。

❸♯9thと9thの共存

III7ならまだ良いですが、II7(9)上でファが鳴らされた場合はより深刻です。プラスマイナスのつかない9thのテンションと♯9thがスケール上で共存するというのは、一般的なジャズ理論のコンセプトでは想定されていない事態です。2
9と♯9が仲良く「ミ-ミ-ミ」というラインを構成する。これが認められてしまったら、逆にジャズ理論に波紋を投げかけることになります。

おかしな絡み

こうなってくると♯9はスケール外の装飾音、刺繍音であるという方向に考えを進めるのが自然ですが、その場合はやはり❶の話に戻り、これを「#9th」と捉えるより「m3rd」と捉えた方が作曲者の意思を正確に反映しているし、さらに下方への傾性を持つことを示すうえでも適切だと考えます。

❹M3とm3の共存可能性

そもそもこのIII7上の「ソ」を「ファのダブルシャープ」とみなす大きな理由の一つが、「コードクオリティを決定するM3とm3はどちらかしか存在し得ない」という、ジャズ理論のシステムの根本発想です。
しかし一方で、ジャズ理論を学んだ人ならば誰でも、このシステムのあてはまらない世界のことについても学んだはず。そう、ブルーノートです。

Cブルーノートスケール

ジャズ理論でも、これに関しては特例的扱いというか、何と言ってもブルースはジャズの先輩ですから、無理に後輩の流儀で#9とせず、リスペクトを込めてm3とするのが一般的なはずです。この点においてジャズは、「コードとメロディが分離して、コードはM3、メロディはm3を取る」という形式を認めているのです。

そしてブルーノートは理屈じゃなくって文化であり、歌心であるから許される。でも、それなら変位のキャンセルだって同じですよね。文化であり、歌心です。だから、「M3とm3は共存しえない」という論理をもってm3の可能性を廃するというのは、「先輩にはヘコヘコして、後輩には強く当たる」というダブルスタンダードなのです。

ブルーノートだけでなく、近代クラシックでも長3と短3をあえて重ねるようなハーモニーは見られます。「コードクオリティをハッキリさせないといけないから、M3とm3両方というのはマズイ」というのは、あくまでもジャズの「即興演奏」や「リハモ」といった様々な文化にシステム的に合致するよう整えられた環境であって、そのシステムで全ての音楽を包括できるわけではないということを、改めて思い出す必要があります。

❺実践・音響感覚との合致

最後に。スケールがどう、ルールがどうも大事ですが、いちばん大事なのは音響です。たとえエンハーモニックをどう捉えようとも、そこに「m3的なサウンド」があることは否定できないはずです。
m3を9と読み替えたとたん、そこから「短和音っぽさ」が消失するなんていうことは、ありえません。音響を決めるのは周波数という物理現象であって、そこに対する理論的なラベリングではないからです。

初めのマイナーセブンスと、次の7(9)には、音響的な近親性が確かにあります。

そうであればやはり、「9」などという婉曲した表現ではなく「m3」であるとした方が、「長3に短3をぶつけて、変位の度合いを弱める」「変位前と同じ音階を使うことで歌いやすく覚えやすいメロディにする」といった実践的な説明に繋げていきやすいと考えています。

文脈多重性

そんなわけで、9には従来のジャズ的なものと、m3とした方が自然なものもあり、きっと中間くらいのものもあります。それはそれぞれの文脈から判断していくしかない。
「分類が文脈に依存するなんて理論的じゃない」と思う人がいるかもしれませんが、音楽理論の世界にそういう場面はたくさんあります。スラッシュコードなのかテンションコードなのか、単なる経過音なのかひとつの和音なのか。転調なのか借用なのか、挿入なのか代理なのか。

「エンハーモニックが生み出すサウンドの文脈多重性」というのはかなり研究しがいのある分野で、Blackadder Chordなんかもそのひとつです。コードスケール理論に思想が偏ると、インターバルを「決めなければならない」と思ってしまいがちですが、実は「どちらでもない」や「二重に重なっている」といった領域に面白いものがまだ埋まっています。そして「キャンセル」もそのひとつだと考えているのです。「誰よりも高く跳べ!」のように、9的使い方とm3的使い方が合わさっている音楽もありました。そんなのもう、どっちとみなすのが正解かって話じゃないですからね。

伝統あるジャズ理論が、9thの多態性を認める必要は全くありません。考え方を変えろと主張するつもりも全くない。そういう必要がないようにわざわざ「自由派」という別の流派を名乗っているのですから。
もしこれまでの話を全てふまえて、かつ自由派という流派の方針をふまえたうえで、やはり9thで統一して教えるべきだという道理があったらば、それは教えて頂きたいと思います。

むろん、表記に神経質になる必要はありません。「キャンセル」と思しきものに「9」と振っても、何ら問題はないですので。ただ、「m3じゃなくって9って決まってるでしょ」と言ってくる人がいたならば、「自由派にそんな決まりはない」と跳ね返してほしい。そういうことです。

#2 親スケールを教えないこと

さて、もうひとつ。「パラレルマイナーと変位シェル」の方では、モーダルインターチェンジの細かな音階選択について、以下のようにまとめています。

選択権があるコード 主な選択基準
IIØIVmVmVII 主調の明るさを保つか否か / ミ-ファの半音関係を維持するか
ImIIIVmVII 主調の明るさを保つか否か / ラ-ソの半音関係を使いたいか
ImIIØIVmVI 増二度の響きを利用するか / シ-ドの半音関係を維持するか

これに対してありそうな批判がこちら。

音楽理論警察の人
あのさあ、そういう子供だましの表面的な教え方、やめよ? きみ、コードがどうやって出来ているか、ぜんぜん知らないんだね。由来となってるスケールが違うの。たとえばIVmM7とかでラにしかフラット付かない奴は、ハーモニックメジャー由来だから。わかる? ハーモニックメジャー。

これは早期にモード系の理論を学んだ人にありうる傾向だと思うのですが、常にペアレントスケールに根拠を求め、親を明らかにすることがゴールであり「本質的な解釈」であると思っている人間が少なからずいると感じています。

ですが私の考え方はそれとは正反対で、ペアレントスケールが何かなんていうのは単なる分類結果、ラベリングであって、重要なのはどの場面でどれを使うか、その判断基準を得ることであると考えています。
目的が変われば、ふさわしい説明も変わります。「ペアレントスケールについて述べない」ことが「表面的な説明である」とは、決して言えないのです。

ここにポン酢とおろし醤油があります。

ポン酢

自由派の方針は、常に実践で理論を活かすことにあります。大事なのは理屈より使い方。だから、「酸味と爽やかさが欲しければポン酢、しゃぶしゃぶなどアッサリした料理に合う。ツーンとくる辛味が欲しければおろし醤油、ハンバーグなど脂っこい料理に合う。」などと教えるわけです。
ペアレントスケールを考えるというのは、この喩えでいうと「ポン酢の酸味は柑橘由来、おろし醤油の辛味は大根由来」みたいな話ですね。もっといえばその酸味はクエン酸由来なわけですが、そうやって辿れば辿るほど本質に近づくかというと、必ずしもそうではない。むしろ「料理」という行為からは外れた話になっていきますよね。

音楽もそうです。名前、原理、科学と音響、文化、実践。どこに重点を置くかは、理論で何を為したいかに準じます。

だからココに関してはまずは使い分けを教えてサウンドの違いを知ってもらい、後々になって(=コード編VI章で)その分類や由来を教えていくというのが自由派の方針なのです。そうする理由はシンプルで、ペアレントスケールの名前が管理・記憶のための情報であるのに対し、サウンドや構成ラインの違いは実践のための情報だからです。
言葉を与えてから耳に入れるじゃなくて、耳に入れてから言葉を与える。それは「付加和音と濁りの活用」や「クオリティ・チェンジ」など他の数々の場所で行われている、共通方針です。

サウンドの繋がりで理解する

また、ビギナーレベルの段階で名前レイヤーの情報ばかりが増えてしまうと、名前を知っていることがマイナスに働くリスクというのもあります。
たとえばMixolydian 6にせよHarmonic Majorにせよ、ミがナチュラルという点においては共通しており、それゆえサウンドにおいてもその部分の明るさというのは共通しています。

比較

名前がない状態であれば、学習者が見るのはココだけです。曲を分析する際には、必然的にその「音響的な意味」を考えることになります。前後のメロディラインや、コード構成音の繋がり、テーマや曲想との合致などを考える作業を通して、こうした借用コードの音楽的繋がりを学んでいけます。

ですが、名前を知ってしまうとどうしても人は名前でモノを見ます。曲を分析する際にも、「これはハーモニックメジャー由来だな」「これはドリアン由来だな」というところで停止してしまい、その先にある「作者はなぜそれを選んだか?」が蔑ろにされる可能性が多分にあると私は思っています。こういうところが「学習コンテンツ」の奥深いところで、情報をたくさん載せればそれだけ良いコンテンツになるという類のものではないのです。

カリキュラム面からの判断

このモーダルインターチェンジ周辺の知識については、カリキュラム構成においても難しいものがあります。Vm7の実態はその多くがRelated IImだし、VII7にはパラレル・ミクソリディアンからの借用という見方と下属調からの借用という2つの見方があるし、VII7にはトライトーン代理の場合もあります。VII/IIなら、Neapolitan Sixthということもあります。

こうした和音すべてについて、ペアレントスケールを含めた解釈を説明するには、かなりの量の前提知識が要求されることになり、それはビギナーにとって大きな精神的負担となる。理論を実践に結びつけるまでのスピードが落ち、それは自由派にとってはありえない選択です。
まずそこでモタモタしていたら本末転倒だし、何より学習者が「スケールが分からないと音を使えない」「コードに対して対応するスケールをあてなければならない」というような観念に駆られることが少しでもあれば大問題です。

深い音楽観を身に付ける前に知識だけが先行してしまうと、往々にして先入観による盲点が生まれます。

スケール選択

こちらは本編で紹介した、「コード前半はラと絡めるためにシ、後半はドと絡めるためにシ」という選択をした例ですが、「コードに対しどれかのスケールを選択する」という意識を中途半端に持ってしまうと、こうした柔軟なパターンが無意識に排除されてしまう危険が十分にありうると思っています。

ですから「暗記して満足」という悪いコースに陥らせることなく、主体的思考とその選択基準を教えることが、自由派にとっては「本質的」で「最適な順序」の教え方であると考えているのです。

ただこの辺りの繊細なバランスは難しいところで、どの段階でどこまでの知識を出すか、「モーダルインターチェンジ」という言葉を使うべきか、「パラレルキーからの借用」と教えるのか「パラレルスケールからの借用」と教えるのか。ミクソリディアンやハーモニックメジャーに由来するものを「パラレルマイナー」とまとめて呼ぶことへの是非などはまだまだ考察の余地がありますね。細部は今後も微調整を繰り返そうと思います。


ハイ。音楽理論はそれ自体が複雑なのに、その教え方、学んだ人間のその先まで考えると、その複雑性はさらに増大します。自由派のコンテンツは現在WEBページですから、断片的に見られた場合には、そういう総体的な流れというのは見えない。それはもう仕方ないことだと思っています。 自由派で自由な音楽理論を学んだ人が、こういった不当な絡まれ方をされないことを祈るばかりです。